【小説】白詰草

 一

 見渡す限りの荒れ野が広がっている。地平線の向こうは土煙によって漠然としており、辿り着くべき場所は見定められなかった。
 一人の旅人が荒野を渡っていた。襤褸布を纏い悄然と歩くその足取りは重く、半里もゆかぬうちに倒れ伏しそうな様子である。野営の装備も持たず、この果てしない不毛の地を踏破するには無謀であった。あるいは、彼は死に場所を探して彷徨っているのかもしれなかった。ただ、必ずしもそうではないことは、水分に渇き切った彼が荒野に点在するサボテンの一柱をナイフで傷付け、その滴り落ちる樹液を美味そうに舐めとっていることから分かる。生きようとする意志はある。尤も、それは生物としての生存本能でしかないのかもしれなかった。
 もし、彼が神話にある聖人であるならば、どこからともなく天の御使いが現れ、彼に天啓をもたらすであろう。そのやつれ切った粗末な風貌は確かに節制を旨とする教義にも適うようである。しかしながら、彼は聖人などではない。どこにでもいる一介の罪人であった。ある罪を犯し、荒野を彷徨う罰を与えられた。
 今の彼の意識下は極度の飢えと渇きと疲労感によって占められていた。自らの犯した罪をも忘れ、ただ生理的欲求だけに支配されていた。およそ人間というものは動物の一種族に他ならず、動物としての生理が満たされずして理性を浮上させることは叶わない。今、彼は一匹の動物であった。彼を人間たらしめる理性も社会的役割も存在し得なかった。その意味では荒野を彷徨うのに適した存在であった。
 半里を少し過ぎたほどでついに彼は力尽き、横向きに倒れ込んだ。土塗れになりながら身体を半転させ天を仰ぎ、もうこれ以上は歩けないと全身で示すように両の手足を伸ばし切った。荒い呼吸で胸部が上下し、手足は小刻みに震えている。空は高く澄み切っており、彼の最期の吐息を吸い上げているかのようだった。
 ――おれは、ここで死ぬのか。
 容赦なく照り付ける輝かしい陽射しに右手をかざし、そのまま腕を伸ばした。腕一本分の影が顔の上に落ち、彼はその眼をうっすらと開いた。自分のことなど一顧だにせず、忌々しいまでに澄み切った青空に、その時、何かが横切ったようだった。それを確かめようとして身体を反転させた彼の目に、遠い地平線の向こうに土煙が上がるのが見えた。それが何であるのかを確かめる猶予もなく、彼は呆気なく意識を手放した。

 二

 頭上を覆う天蓋と牛毛の筵、微かな馬糞の臭いの中で、彼は目を覚ました。滲んでいた視界がはっきりとするにつれ、中央の炉を囲み、五、六人の男女がこちらに顔を向けて座っているのが判じられた。天幕に覆われた広さ十二畳ほどの空間に絨毯が敷かれ、簡素な棚と長椅子が置かれている。頭部に長布を巻き、複雑な文様の描かれた衣服を身に付けた人々は、どこか懐かしさを感じさせた。
「お前はヤナンで死ぬところだった」
 彼を取り囲む一団の中で最も年若いと思われる娘が口を開いた。一つに編み上げた長い黒髪を後ろに垂らし、日に焼けた健康的な肌を持った快活な印象の娘だった。揺るぎない意志を宿したその瞳に、彼は見覚えがあるような気がした。
「ヤナンとは?」
「ヤナンを知らないのか。不毛の地だ。我々が逃げた馬を追いかけて来なければ、お前は死ぬところだった」
 呆れた表情を浮かべながらも状況を説明してくれる娘に、彼は好感を持った。
「きみが助けてくれたのか。ありがとう」
 彼は深々と頭を下げた。
「私はテオ。族長の娘だ」
 微かに表情を緩めながら差し出された細い手を彼はしっかりと握った。その掌は思いの外、華奢で小さかった。
 
 およそ一週間、彼は寝所から移動することもままならなかった。次第に体力は回復し、起き上がることができるようになっていった。ある朝、身体が軽くなったように感じて天幕を出ると、外は一面の緑が広がっていた。柔らかな風にそよぐ草の波。どこまでも続く青々とした草原は、つい数日前まで灰色の世界にいた彼の目には眩しく映った。
「おい、もう大丈夫そうだな」
 天幕の前で立ち尽くしていた彼を早朝の作業から戻ってきたテオの明るい声が呼んだ。その表情はいつにも増して晴れやかだった。
「ありがとう、テオ。きみのおかげだ」
「こっちへ来い、乳搾りを教えてやる」
 遊牧民である彼らの生活は自然と共にあり、家畜たちの放牧と酪農を繰り返す毎日だった。早朝から牛や馬の乳搾りに忙しく、それが終わると家畜たちを野に放ち、遠くへと離れるものが出ないよう監視する。並行して、馬乳酒や乳酪を作る作業が待っている。日が暮れる前に再び家畜たちを追い立て、住居の近くに設けられた柵の内側まで連れ戻す。最初は一から十までテオに教わりながら、彼は次第に自分の仕事を飲み込んでいった。

 日を経るにつれ、彼が仕事の役に立つことが分かると、人々の彼を見る目も変わっていった。男たちは夜毎の酒盛りに彼を呼び寄せ、しきりに馬乳酒を飲ませ続けた。族長であるテオの父から「何か芸をしてみろ」と言われた彼が、暫く考えた後、徐ろに上半身裸になって倒立し、たどたどしく逆立ち歩きをして見せると拍手喝采が浴びせられた。テオも満面の笑顔で笑い転げていた。女たちは彼を厄介者扱いすることをやめ、他の男たちと同様にたっぷりの山羊乳の入った茶を勧め、古い衣服を仕立て直して彼に着せてやるようになった。襤褸切れ同然の貫頭衣を脱ぎ去り、幾何学模様の刺繍が凝らされた上衣に着替えると、彼は自分が生まれ変わったような心地がした。そして、仲間として認められたことを実感し、温かい人々の心に感謝した。初めて着替えをした日の朝、彼の姿を見たテオの瞳が輝き、勢いよく体当たりをするようにして抱き付いてきたことを彼は一生、忘れないだろう。よろめきながらも彼女を抱き留めた彼は、その身体が思いの外、華奢で小さく、また、柔らかいことを実感したのだった。テオはすぐに身体を離したが、彼の両手には柔らかな彼女の感触が残り続けていた。

 朝の務めを終えた後、見晴らしのよい高台に陣取り、緩慢に逍遥しながら草を食む家畜たちをひたすらに眺めている。どこまでも広がる青い草原、遮る物のない陽射しが容赦なく降り注ぎ、群青のインクを垂らしたようなグラデーションの空に群島のような雲が浮かんでいる。時折、吹き抜ける風が汗ばんだ皮膚に心地よい。傍らで、仕事のために与えられた愛馬が草を食んでいる。弛緩し切った心地よい時間がゆっくりと過ぎてゆく。何をするでもなく、彼は頬杖をしながら雲の形を定義したり、家畜たちの数を数えたりしていた。ふと、何かを忘れているような、何かが思い出せそうな予感が過ぎっては、テオの微かに赤みを差した頰と強い意志を宿した瞳が浮かんできて、彼女のことで胸が一杯になる心地がした。
「見ろ、白詰草が咲いている」
 馬を引いて近付いてくる様子は丘の上から見えていた。テオの細い指先に指し示された方を見ると、丸みを帯びた三葉の葉が密集した中から真っ直ぐに立ち上がった細い茎の先端に白い小さな花弁たちが集まって、開き始めた蓮華のような可憐な花を咲かせている。その中に蹲って花を摘み始めたテオの姿を眺めていると、彼は胸騒ぎを覚えるような気がした。暫く眺めていると、器用に手の内で茎を結び合せ、手際よく花冠を作り上げてゆく。
「できた」
 小さな白詰草の花冠を頭に頂いた彼女が立ち上がって宣言した。
「よく似合っているよ」
 いつにも増して少女らしい笑顔を浮かべる彼女につられ笑顔になりながら、その屈託のない視線に眩しさを覚え、彼はさり気なく視線を逸らした。足下で純白の小さな花弁たちが緑の中で揺れていた。

 ある夜、言い知れぬ胸騒ぎに襲われ、彼は目を覚ました。風音一つしない静かな夜だった。暗闇の中で暫く目を凝らしていた彼は、居ても立っても居られず、自分にあてがわれた簡易式の天幕の入口へと忍び足で近寄っていった。天幕の入口から顔を覗かせると、鮮やかな満月が驚くほど近くに浮かんでいるのが見えた。水の滴り落ちそうな白肌の月だった。
 その淡い光の只中にテオが立っていた。何をするでもなく、直立不動で月を見上げているらしかった。惹き寄せられるように近付いてゆくと、こちらに気付き、視線が交差する。その瞳には月の光が留まって揺らめいているかに見えた。何かに突き動かされるように至近距離まで近寄り、彼女の身体を抱き締めた。その身体は月光を浴びて冷え切っているようだった。白詰草に覆われた地表に彼女を横たえ、衝動に流されるままに交わろうとする間、彼女は抵抗しようとしなかった。草いきれと土埃にまみれながら、空が白んでくるまで、二人は繋がり合っていた。テオは紅潮した頰のまま、耳元の白詰草の花を触ったり摘んだりしていた。

 三
 
 やがて、日の沈みが早くなり、冷たい風が吹き始めた。家畜たちの動きは目に見えて鈍くなり、草原の緑は薄くなっていった。越冬のための一冬分の食糧を貯蔵庫に溜め込むための作業に追われ、人々は普段の鷹揚な表情がなりを潜めていた。身動きの取れない冬の間、家畜たちの凍傷への対策と、男たちの出稼ぎの算段、そして、遠い南方に位置するという聖地への巡礼について、族長の天幕では夜ごとに人が溢れ、議論が交わされた。
「我々は巡礼に出る。お前も来い」
 越冬の準備も終わろうとするある夜、テオが決意を宿した瞳でそう告げた。風雨を避けるために建てられた小屋に入れた多数の家畜たちの守りをする者を残し、テオたちを含む十数人が一団となって南方の巡礼地を目指す計画だった。馬を駆るとはいえ、優に千里は超える行程であり、例年、脱落者も出る過酷な巡礼の旅だった。テオにとっては初めての参加であり、テオの父からも付き人として一団に加わるよう彼は命じられたのだった。

「あれはお前に懐いているようだ」
 人々が寝静まった深夜、彼の簡易式天幕を訪れたテオの父はその巨体を屈めるようにして入り口をくぐり、筵に腰を下ろしながら話を切り出した。その手に持った燭台の揺らめく小さな炎に照らされた彫りの深い頰を、彼は身じろぎもせず眺めていた。「お前はどうなのだ」と問われた彼は、歴戦の傷痕の刻み込まれた眼光に見据えられ、多少、たじろぎながらも、視線を逸らすことはなく、自分の思いを正直に答えた。
 無言で睨み合ったまま、永遠にも思えるような時間が過ぎてゆく。彼は自分は殺されるのではないかと直感していた。男の腰元の精緻な装飾の凝らされた小刀の鞘が微かに揺れている。滲み出る汗に幾度も目を瞬かせながら、ここで死ぬのも悪くはないかと思い始めた頃、徐ろに男が立ち上がった。すわ、と身震いをした彼を見下ろしながら、腰を屈めてその背中をその大きな掌で二、三度、強く叩き付け、莞爾とした笑みを浮かべながら、「頼んだぞ、ダジル」と野太い声で宣告した後、巨体を揺らし天幕の入り口から出てゆく。
 取り残された彼は全身を冷や汗で濡らしながら、今しがたテオの父がいた辺りの暗闇を見詰め続けていた。今のは夢だったのだろうかと思い返しながら、汗まみれの両手で顔を覆い、大きく息を吐き出した。逃れようのない運命に自分が雁字搦めに縛られたことを実感し、また、進むべき光溢れる道が拓かれたことを意識していた。身体の震えは暫く止まりそうになかった。

 巡礼の一団の馬群の跳ね上げる土煙が後方へと流れてゆく。
 南へ、南へ。
 容赦なく降り注ぐ陽光と灼熱の向かい風を突き抜けながら、何かに急き立てられるようにして、ひたすらに馬を走らせ続けていた。空の白み始めた頃から宵闇が帳を下ろすまで。手綱を握る指の感覚はすでになく、尻の痛みは断続的に襲ってくる。それでも速度を緩めれば、一団から落伍し不毛の地に置き去りにされるのみであり、感覚のない指で手綱を握り締め、馬を駆り立て続ける以外に選択肢はなかった。隣を走っているテオの表情はいつもと変わらないようだったが、あるいは彼女も苦痛に耐えて必死に手綱を握っているのかもしれない、そう思うと、彼の中には使命感めいた感情が湧き上がってくるのだった。
 見渡す限りを赤く染める世界に黒紫のグラデーションが溶け込み始め、蒼白の月が地平線から昇り始める頃、一団は馬を止め、野営の準備を始めた。総出で手際よく天幕を張り、麻袋から取り出した黒石と綿と炭で火を起こし、貴重な水で湯を沸かした鍋に干し肉を入れて戻したものと馬乳酒を食事とした。木の器に注がれたそれを大事そうに少しずつ飲み込むと、乾燥地帯の熱気に傷め付けられた臓腑に馬の乳が沁み渡ってゆく。
「大丈夫か」
 目に見えて疲れ切った様子をしているのを気遣ってテオが声を掛けると、彼は弱々しく微笑んだ。貴重な水で濡らした麻布を頭に結わえてやると、「気持ちがいい」と嬉しそうな表情を浮かべる。
「初めて会った時も、こんな感じだったのかな」
 濡れ布を頭に載せて横になった彼の傍らで、
「そうだな、随分と遠いことのように感じる」
 彼女も横になりながら懐かしそうに言った。雲一つない夜に下弦の月が白金色の光を放っている。それを囲むようにして満天の星々が零れ落ちんばかりに瞬いていた。微かな衣擦れの音がして、テオの暖かな身体が密着してくるのを彼は感じていた。その細く華奢な身体を彼は強く抱き寄せた。

 満月の夜に旅立った一団が新月の夜を迎えた翌朝、消耗の色を濃くした巡礼者たちが淡々と馬の背に跨り、些か速度を落として駆けてゆくと、どこまでも続く単調な景色に唐突に変化が訪れた。灰色の地平線が終わった瞬間、代わりに青い境界線が立ち上ってくる。期待に胸を膨らませながら、なおも駆け続けると、次第に境界線が太くせり上がってきて、視界を埋め始める。馬群の跳ね上げる土煙が土から砂へと変わった瞬間、一団は急旋回してその疾走を止めた。眼前には、見渡す限りの輝ける海が広がっていた。
「ここが、聖水都」
 その瞳に碧瑠璃を宿し、テオが呟いた。水面は緩やかに伸縮を繰り返し、遠浅の海岸線を浸しており、その波間を無数の小舟たちが漂っている。蒼白色のドームを冠に頂いた純白の小さな教会が水面に浮かんでおり、その精緻を凝らした天使や魔物の配された門は人々の目を惹き付ける。この教会を先頭として、石造りの建造物たちが水没するようにして浮かんでいる。遠目を凝らせば、その入り組んだ水路を衝突寸前ですり抜けようとする小舟たち、橋の上では天秤を手にした商人と客の商談が交わされている様子が見える。
 心地よい海風が吹き渡り、日に焼けた皮膚を冷ましてくれる。絶え間ない潮騒が胸の内に染み込んでくるような心地がした。この感動的な情景に暫しの間、無言で佇みながら、彼はこの景色に見覚えがあるような気がしていた。
 一団は馬を引きながら水都を迂回し、近郊の宿営地を探し歩いた。夕闇に急かされながら古くからの馴染みの宿舎の主人と交渉する間、馬たちは長旅の疲れからか、あるいは、環境の急変によるものか、しきりに鼻を鳴らしていた。

 四

 水都に辿り着いた翌朝、彼はいつかのような胸騒ぎを覚えて宿舎を出た。空はまだ白み始めたばかりで、蒼白の月が高度を落として地平線へと沈み始めたところだった。運河の方へと歩いてゆくと、まだ微睡みの中にいる灰色の街並みが朝靄の中に溶け込んでいた。早朝の礼拝を告げる鐘が聴こえてきた。水鳥の影が灰色の靄の中を飛び交い、甲高い鳴き声を上げていた。その鳴き声は彼の中に郷愁を湧き上がらせるものだった。いつか遠い過去にもそのような声を聴いたような気がした。その情景を背景として、運河の際にテオが立ち尽くしていた。彼は声を掛けようかと迷いながら、その隣へと近寄っていった。暫く無言で佇んでいた彼は呟くようにして言った。
「何かが思い出せそうなんだ」
「何を?」
「分からない。でも、大切な何かが……」
 それ以上の言葉は彼の中から浮かび上がってくることはなかった。テオは朝靄の蒼白を宿した瞳で、遠い目をした彼を見詰めていた。彼がどこか遠くへと行こうとしている気配を彼女は感じ取っていた。やがて、朝焼けの赤が周囲を満たし始めると、二人は無言のまま、どちらからともなく宿舎への道を戻り始めた。

 その日、巡礼の一団は規則正しい列をなして水都へと向かった。現地の案内人に導かれながら入り組んだ路地を抜け、小舟の行き交う水路にかかる幾つかの橋を渡り、白き聖教会を目指した。水都のシンボルである神聖なる聖堂は度重なる戦火をもくぐり抜け、建立当時の姿を保っているとの由であった。その精緻な造形を凝らした壮麗なる門を見上げながら、聖堂の中へと入ってゆく。天高く聳えるクーポラには一面の天井画が施されており、色硝子から射し込む鮮やかな光線が堂内を満たしていた。広々とした聖堂の中央に跪き礼拝をする間、周囲の人々からは珍しい一団への奇異の視線が注がれていた。
 荘厳な祈りの言葉を司祭が唱える中、救世主の復活の天井画を眺めるうち、彼は自らの内側から何かがせり上がってくるのを感じていた。それは、罪の記憶だった。この海の向こうの遠い国で、自分は重い罪を犯し、荒野へと追放されたのだ。その罪科が何であったのかは判然としなかったが、確かに自分は咎により追放されたことは確信できた。胃の中の物を全て吐き出しそうになる怖気に耐えながら礼拝の終わるのを待ち、彼は壁に手をついてゆっくりと出口を目指した。その様子に気付いたテオがその後を追って外へと出た。
 聖堂を出てからテオが傍らに寄ってきたことに気付きながら、彼は無言で歩いていた。眉間に皺を寄せて蒼い顔をした様子に、テオは彼の身に異変が起きたことを感じ取っていた。悄然とした彼の纏う雰囲気は何者の助力をも拒絶するかのようだった。行き交う人々に何度かぶつかりそうになりながら、運河の際まで歩いた後、彼は立ち止まり、振り返った。
「テオ、おれは行かなきゃいけない」
 深刻な表情に虚ろな目を浮かべて、自らの罪を告白するように言った。
「どこへ?」
 彼が指し示した先は白き教会のさらに向こう側、水平線の果ての未知の大陸のようだった。そこへと辿り着くことは千里の巡礼よりも困難であるように思われた。テオの表情が曇る。彼は徐に彼女に近付き、その小さな身体を抱き寄せた。
「春になったら、必ず帰ってくる。迎えに来る。約束する」
「駄目だ、行くな。行ったらきっと帰ってこられなくなる」
 テオは頑なに彼の申し出を拒んだ。彼女には確信があった。海の向こうの未知の大陸が彼の埋葬地となるであろうことを。彼女は涙を見せなかった。その代わりに、信じ抜く意思を宿した揺るぎない月色の瞳をしていた。その瞳に見詰められると、彼は自らの不利を悟らずにはいられなかった。
「もし、おれが人殺しだったら、どうする? ここに追放されたのは……」
「お前はそんなことをする奴じゃない」
「おれには確信が持てない。もし、そうだったとしたら……」
「お前を殺して、私も死のう」
 テオは逡巡することもなく言い切った。「それはなんと素晴らしい提案なのか」と彼は身震いをせずにはいられなかったが、すぐにそれは空想に過ぎないことを思い出した。自分を見詰める彼女の瞳はあくまで真っ直ぐで混じり気がなく、純真だった。腕の中の黒い結い髪の娘に答えるべき彼の言葉は一つしかなかった。大きな溜息を一つ吐いた彼の表情には以前の生気が戻っていた。
「おれの負けだ、テオ。きみには一生、勝てそうにない」
 満面の笑みを浮かべた彼女が勢いよく胸元に頭突きをしてきたので、彼は痛みに悶絶しなければならなかった。彼女は少女らしく笑い転げていた。仕返しをしようと彼が向き直った時、すでに彼女は教会の方へと逃げてゆくところだった。追い掛けるのを断念してゆっくりと歩いてゆくと、振り返った彼女が手を振って彼の名を呼んだ。
「早く来い、ダジル!」
 右手を上げてそれに応えながら、彼は駆け足で彼女の元へと走った。彼女の待つ教会の白壁には壮麗な彫刻たちが陽光を反射して輝いていた。

 了

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