『婦系図』第一部について
※『婦系図』第一部のネタバレを含みますので、必ず作品を読んでからお読みください。
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「くらべこし 振り分け髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれか上ぐべき」
(『伊勢物語』「筒井筒」)
言わずと知れた泉鏡花の代表作の一つであり、舞台や映画にもなっている。
江戸の風情の未だ残る明治末の東京の下町を舞台に、書生の早瀬とその師である大学教授の娘、妙子を中心として、縁談をめぐる悲喜交々が展開される。
早瀬の内縁の妻となっているお蔦を中心に、と書かなかったのは、舞台では有名な「湯島の白梅」の愁嘆場が原作では存在せず、むしろ、妙子との別れを感動的に情感たっぷりに描いていることから、また、登場時の文体の流麗を極めた描写を見れば、妙子の方がヒロインであるように感じられるからである。
勿論、第二部でのお蔦の今際の際の場面は屈指の名場面であり、その悲恋をクライマックスとするならば、お蔦をヒロインとすることも十分、説得力があると言えるだろう。
『当世女装一斑』で、若い女性の着物の着付けについて雄弁に語ってもいる鏡花の真骨頂であるところの、着物美人が多く登場することが本作の最大の特徴と言えるであろう。
この作品を読まずして着物美人を語るなかれ、とも言いたくなるような気持ちもしてくる。
美しい着物の女性、華やかながら陰のある花柳界、師弟の絆、義理と人情、江戸っ子の心意気。
まさに、我々が大正以前の和風情緒に想いを馳せる時の憧れ、ロマンにおいて期待している情景の全てがここにあると言っても過言ではないのではなかろうか。
●本文の一字一句、精読
冒頭、酸漿を鳴らすお蔦の唇の紅の描写から、この美しい物語は始まる。
神楽坂の縁日に桜草を買ったという。桜草とは――? やや不思議な雰囲気、なるほど、幻想感を感じる。
「銀杏返しのほつれた鬢を傾けて、腰障子の際に懐手で。」――うむ、この一文だけで、すでに満足である。
「半纏の裾、下交いの褄、目の前のどぶ板。蝶々の羽で三味線の胴を打つがごとく、静かに長くる、春の日や。」――うむ、お見事。
――泉鏡花の小説を読んでいて、改めて、私は思う。美しい文章を読むと、心が洗われる――と。
名代の芝っこ、魚屋で「め組」の源さん。半纏は薄汚れ、腹掛けの色が褪せ、三尺は捩くれて、が、盤台は美しい。――魚が食べたくなってくる。
「半纏を着た奥様が江戸にあるものかね。」ふむ、面白い表現である。
台所で菠薐草(ほうれん草)を揃えている。ほうれん草、小松菜、カブ、玉ねぎ、じゃがいも、人参、椎茸などは、明治期ではどうだったのか。
「分らない旦じゃねえか」旦=旦那。奥=奥様。なお、『ごちそうさん』で、帝大教授の登場人物が女性のことを「奥」と呼んでいたことを思い出す。
「番ごと」=事あるごとに。
「盤台を差覗くと、鯛の濡色輝いて、広重の絵を見る風情、柳の影は映らぬが、河岸の朝の月影は、まだその鱗に消えないのである。」――達筆である。どうすればこのような文章が書けるのか、想像もできない。
「達引」=義理立てすること。「お三どん」=台所仕事の使用人。「三太夫」=家令・執事。「印半纏」=屋号や家紋を染め抜いた半纏。使用人や職人が着る。法被。「目笊」=編み目の荒い笊。
「黒の紋羽二重の紋着羽織、焦げ茶の肩掛け(ショオル)。菖蒲が過ぎても遊ばさるる。」=菖蒲の季節は五、六月。初夏に入りそうな陽気にもショールを纏うのが、当時のご婦人の身だしなみだったらしい。
両手に念入りに手袋をはめる婦人。襦袢の裏の紅いのが翻り、それで年紀のほどを知る。――どういう意味なのだろうか。襦袢の裏が紅いのは、まだ色気がある、若いということを意味しているのだろうか。
蝙蝠傘を手にして歩き出す。――当時は日傘に蝙蝠傘を使ったのか。
「南町御構い」=南町出入り禁止。「糸底」茶碗の裏の台の部分。高台。「臥煙(がえん)」江戸の町火消しの鳶。ならず者。「凶状持ち」前科者。「はりはり」はりはり漬け。切り干し大根の漬物。(沢庵ご飯が食べたくなってきた。)
「口のさががない」他人の噂を無遠慮にする様子。「てっぽう」河豚。「てっぽうとこいつだけは命がけでもやめられねえんだから」当時、河豚が好まれたことがうかがえる。
――さて、真砂町のお嬢様である。私は、個人的に、この妙子お嬢様に菫さん(筆者の所有する人形)の面影を重ねているのである。
「はッと花降る留南奇の薫」留め木=香木を焚いて着物に香りを移すこと。なるほど、菫さんの香りは留め木だったのか。
「帯も、袂も、衣紋も、扱帯も、花いろいろの立姿。まあ!紫と、水浅黄と、白と紅咲き重なった、矢車草を片袖に、月夜に孔雀を見るような。」――うむ、真骨頂である。まさに可憐。
「吾妻下駄が可愛く並んで、白足袋薄く、藤色の裾を捌いて、濃いお納戸地に、浅黄と赤で、撫子と水の繻珍の帯腰、向う屈みに水瓶へ、花菫の簪と、リボンの色が、蝶々の翼薄黄色に」――うむ、可憐である。
「吾妻下駄」=台に畳表貼った女性用の下駄。「お納戸色」=緑がかった錆青色。「繻珍」=繻子に金糸の絹織物
花菫の簪は、見逃せない。薄黄色のおリボン。当時の女学生はおリボンを付けていたという。扱き帯は今では七五三で見られるが、当時は女学生も着けていたのだろうか。
ここまで、三人の婦人と二つの花が登場した。すなわち、お蔦さんと妙子さん、酸漿と矢車草である。赤い酸漿は華やかながらも、どこか哀愁を感じさせる。矢車草はまさに華やかにして可憐、手毬の模様にも似て、妙子さんのイメージにぴったりである。まさに、月と太陽といった感じであろうか。
「帽子と花簪の中であった。が、さてこうなると、心は同一でも兵子帯と扱帯ほど隔てが出来る。」その二つの違いが分からない。後者の方が正装か。帽子と花簪の仲、うむ、良い。
「妙子は怨めしそうな目で、可愛らしく見たばかり。」うむ、仕草が目に浮かぶ。斜めに座った女優の傾げた顔の。
――恋人にするならお蔦さん、結婚するなら妙子さんという。主税がそう考えていたかは分からないが、そのような男の身勝手な生々しい感情を読み取ることもできるだろう。
「茶筒にかけた手を留めた」茶筒に茶葉を保管して急須で淹れる、というのは今でもやっているが、明治からあったのか。
――調べたところ、抹茶ではなく、急須で淹れる煎茶は、江戸時代後期から始まったのか。なるほど。
「雨桐」花札の役のようなものか。「烏金」高利貸し。朝に百文借りて、夜に百一文返すといったもの。「楊家有女」漢の玄宗帝と楊貴妃の悲恋を歌った白居易の『長恨歌』による。
「素湯を飲むような事を云う。」味気なことを言う。「流連」家にも帰らず遊び惚けること。――河野英吉は親の金で遊び惚ける不良学生の典型として描かれるが、現代日本においては、「大学時代は人生で一番、遊べる時代だ」という向きも多く、むしろ、遊び人学生が多数派であろう。
「アイス」高利貸のこと。(こおり)「手巾」ハンカチ。「収紅拾紫」口紅と目尻の紫の化粧のことだろうか。
「富士見町あたりの大空の星の光を宿して、美しく活っている。見よ、河野が座を、斜に避けた処には、昨日の袖の香を留めた、友染の花も、綾の霞も、畳の上を消えないのである。」――うむ、お見事。どこの富士見町だろうか。
ここまで、お蔦さんについて掘り下げられず、登場人物からその境遇が仄めかせられる。読者はそれを推測するしかない。
妙子さんは女学校五年。当時の学制は尋常小学校六年、女学校四、五年。卒業を控えたとあるから、十六、七歳程度だろうか。
「見附」江戸城三十六見附には、四谷見附、市谷見附、赤坂見附などがあった。飯田橋を過ぎて、とあるから、赤坂見附だろうか。ただ、酒井教授の住まいは真砂町(現・本郷)。本郷と言えば帝国大学である。本郷から飯田橋は妥当だが、赤坂見附は遠過ぎるかもしれない。「母衣」人力車のほろ。
「炭取り」火鉢に入れる炭を入れておく籠・桶。「馥郁たる」良い香りのする。「烏羽玉」ぬばたま。ぬばたまの・夜(枕詞)。ヒオウギの黒い実。黒いことの比喩。
「筒井筒振分髪」伊勢物語の筒井筒。幼馴染の男女が結婚する。「くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずしてたれか上ぐべき」
「月の十二日は本郷の薬師様の縁日で、電車が通るようになっても相かわらず賑かな。」明治後期には都内で路面電車が走っていた。それ以前は馬車鉄道があったという。
「浅草奥山」浅草寺の裏には見世物小屋が軒を連ねていたという。「玉乗」見世物の一つか。
「鰻屋の良い匂いを嗅ぎながら隣の茶漬屋へ駆け込んで箸を持つ。」(いわゆる換気扇メシは明治期から存在したのか。)
「屈託そうな」悩んでいるような。「二才」青二才。「留女」喧嘩の仲裁の女。宿屋の客引の女。「岡惚れ」他人の恋人などを傍から慕うこと。
「閨門」寝室の入り口。家庭内の事情。「帆待ち」副収入。へそくり。船頭が契約外の荷物を乗せて収入を得ること。「余徳」と書いて「ほまち」と読ませるのが鏡花らしい。
「地者」遊女に対しての堅気の女性。地女。「月下氷人」仲人。媒酌人。中国の故事による。「塩瀬」羽二重の絹織物の一種。
「生命保険の勧誘も出来そうに見えた」生命保険の歴史は古く、明治十四年、国内初の生命保険会社である明治生命保険会社が設立した。
「三の切」芝居の佳境の愁嘆場。五段組の浄瑠璃の三段の切(最後)のことで芝居の最高潮。
「鮑の片思い」鮑は二枚貝の片方だけに見えることから、片思いの象徴とされる。「中口を利く」二者の間に入って、双方の悪口を言うこと。
「夏の掻巻に、と思って古浴衣の染を抜いて形を置かせに遣ってある、紺屋へ」古い浴衣を染め直して使うということか?
「物怪な」思いがけないこと。物怪の幸い。「半襟」襦袢に縫い付ける替え襟。「頓狂」出し抜けで調子外れな様子。
「筒袖」袂のない着物。法被、半纏、筒袖半襦袢がある。なお、洋服は筒袖である。「雷様の用心」昔の風習で、雷雨になると線香を焚いて蚊帳の中で雷様をやり過ごす、という風習があったらしい。「とつおいつ」取りつ置きつ。あれこれ思い悩む様。
「曲がない」愛想がない。「やんぬるかな」もうおしまいだ。「奥方が、端然として針仕事の、気高い、奥床しい、懐い姿を見るにつけても」奥方の姿は可憐な妙子さんのお母様として相応しい。江戸時代『女大学』に曰く、女子の第一の嗜みは裁縫であると。http://komonjyo.net/harishigoto.html
「気遣わしい」心配である。「魁」先頭を行く者。「影向」神仏が姿を現すこと。「火定」不動明王が身体から炎を発すること。焼身。「かすり」幾何学模様の普段着の着物。
「リボンも顔も単に白く、かすりの羽織が夜の艶に、ちらちらと蝶が行交う歩行ぶり、紅ちらめく袖は長いが、不断着の姿は、年も二ツ三ツ長けて大人びて、愛らしいよりも艶麗であった」お妙さんのお色直し、普段着で。薬師の縁日というのがまた良いシチュエーションである。うむ、泉鏡花、分かっている。
「附木」マッチ。「袂から戛然(かちり)と音する松の葉を投げて」そのままでは意味が通らない。「松の葉」寸志のこと。カチリと音のする寸志=僅かばかりの金銭、の意味であろう。これは、調べないと分からない。
「鳥居の中には藪蕎麦もある」本郷の団子坂に蔦屋なる有名な蕎麦屋があり、大きな竹藪に囲まれていたことから、「藪蕎麦」と呼ばれていたという。(食べてみたい。)
「出放題」でたらめを言う。「肩癖」肩凝り、按摩。「カンテラ」ブリキ壺に綿芯を通した石油灯。
「茶の中折帽を無造作に、黒地に茶の千筋、平お召の一枚小袖。黒斜子に丁子巴の三つ紋の羽織、紺の無地献上博多の帯腰すっきりと、片手を懐に、裄短な袖を投げた風采は」まさに、粋な男である。
「中折帽」当時、中折帽は紳士の身だしなみであったらしい。「千筋」細い縦縞模様。
「平御召し」平織りの御召し縮緬。羽二重と並ぶ最高級の絹織物で、通常の縮緬と比べてシボが大きく、先染めに特徴があるらしい。
「矢絣御召」明治大正期の女学生は、矢絣柄の御召しの着物に袴にブーツという、いわゆるハイカラさんスタイルが流行したという。「斜子」斜子織。経糸、緯糸ともに二本以上並べた絹織物で、表面が魚卵もようにぶつぶつとしているという。
「丁字巴」家紋の一つ。「家紋」明治八年に苗字を定めることを義務付ける法律が成立した。家紋も自由に決めたらしい。
「献上博多」献上柄の博多織の帯。最上級とされる。単のものは通年で着用できる。「痩せぎす」痩せて骨ばっていること。
「黒八丈」黒色無地の絹の布。泥染で染めている。半襟や袖口に用いる。「玉樹」優れて高潔な人。美しい木。エンジュ。
1間=約1.8メートル、1尺=約30センチ、約3センチ、1畳=約1.8平方メートル、1坪=約3.3平方メートル、1インチ=約2.5センチ、1フィート=約30センチ、1ヤード=約0.9メートル、1マイル=約1.6キロメートル。
一つ疑問。主税は大学で講義をしたとあるが、学位を持たない者が、教授の門弟という肩書きで講義を行うことが当時、あったのだろうか。
「林檎の綺麗な、芭蕉実の芬と薫る、燈の真蒼な、明い水菓子屋の角を曲って」リンゴとバナナの水菓子屋。すなわち、果物屋。店先はどのようなものだったのだろうか。
「尾籠」外品、おろかな。「世には演劇の見物の幹事をして、それを縁に、俳優と接吻する貴婦人もある」なるほど、いわゆる役得というものであろう。
「御嶽山」御嶽山駅のこと。品川の西、大田区。青梅の御嶽山から名をとったらしい。「ポンチ」けがき作業のおす型、鍛造加工の穴あけ工具。
「錦帯橋の月の景色を、長谷川が大道具で見せたように、」分からない。歌舞伎の大道具による演出のことか。
「すっこかす」物を他の場所を移す。「逆捩じ」非難に非難し返す。(今で言う「逆ギレ」か。)
「前垂れ掛け」奉公人。「法然頭」頂きが凹んだ頭の形。「御仁体」徳の備わった人物。敬称。御仁と同じ意味か。「中小僧」もう少しで一人前になる小僧。「利生」菩薩が衆生に利益を与えること。
「と胸をつく」心を強く打つ。「のろける」おのろけを言う。「大川」今の隅田川。「眼鏡橋」万世橋のこと。神田川に架かる橋。今の秋葉原。「本所」今の墨田区。江戸の東端。両国の隣。
(それにしても、鏡花の文章は流麗だが当て字が多過ぎて、どこまでが正しい字なのか分からない。)
「萌黄色」黄緑色。「浅葱色」葱藍で染めた浅い藍色。ターコイズブルーに近い。「綾織」斜文織。点が斜めに並ぶ。デニムも含まれる。
「浅草橋を渡る」明治期、雛人形で高名な浅草茅町の隣の、柳橋界隈には花街(花柳界)があったという。
|http://www.abura-ya.com/kobore/kobore03.html
「浅草橋を渡果てると、富貴竈が巨人のごとく、仁丹が城のごとく、相対して角を仕切った、横町へ、斜めに入って、」
「富貴竈」浅草橋付近にあったという輸入食器店のことか。「仁丹塔」浅草の凌雲閣の隣に建てられた、仁丹の広告。
|https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ 仁丹塔
「軒灯籠」軒に掲げる灯籠。料亭も用いたらしい。「御神灯」芸者屋の軒先に掲げた提灯で、縁起を担いで「御神灯」と書いた。「庇合い(ひあい)」建物同士がくっついている状態。「婀娜めく(あだめく)」色っぽく。「枝折戸」竹や木の枝を組んだ簡素な開き戸。
「堅気づくり」芸妓の和装で、あえて華美にならぬように堅気風にする装いがあるとどこかで読んだ覚えがある。「切り火」厄除けのまじない。主人が出かける時などに背中で火打ち石を打ち合わせる。「憚り様」ご苦労様。おあいにく様。「重ね箪笥」重ねられる造りの箪笥。「端なく」思いがけず。
「出花」お茶。お茶の最初の一煎。「奥方」ここでは自分の妻のことを指す。家内とは呼んでいない。「こぎる」値切る。「エンゼル」天女と書いてエンゼルと読ませている。
「嫁入りと言えば鼠の絵」鼠の嫁入りのことか。「莞爾として」にっこりとして。「瓜実顔」面長で色白く、古くからの美人の典型。
「濃い茶に鶴の羽小紋の紋着二枚袷、藍気鼠の半襟、白茶地に翁格子の博多の丸帯、古代模様空色縮緬の長襦袢」「藍気鼠」藍鼠。青みがかったグレー。「翁格子」太い線と細い線を組み合わせたチェック柄。「仔細」詳細、事情、経緯。「古代模様」古くから伝わる着物の模様で今日でもよく使用される。|http://www.kanaiya.co.jp/mame/08-03.gara.htm
「吸いさし」煙草の吸いかけ。「清元節」三味線の音楽、浄瑠璃。ここでは芸者が奏でていたらしい。「のて」山手。山の方。郊外の意味か。「素一歩」貧乏人。
「帰り花」秋頃に、桜、梅、躑躅などが季節外れの花を咲かせること。「剣突を食わせる」乱暴に叱りつける。
(師弟の深い絆が胸に迫る。どこかの評論では、師を悪者にする解説があったが、それは読み違えではないだろうか。)
「野天」屋外。露天。「川千鳥」川辺の千鳥。冬の季語。「銅壺」火鉢の中で熱燗を作る道具。
「鉄お納戸地に、白の角通しの縮緬、かわり色の裳を払って、上下対の袷の襲、黒繻珍に金茶で菖蒲を織出した丸帯、緋綸子の長襦袢」「鉄お納戸」緑青の納戸を暗く灰色に近くした色。「角通し」小さな正方形が連続する。江戸小紋の一つ。「裳(もすそ)」着物の裾。
「綸子」繻子織に模様を織り込んだ上等な絹織物。訪問着等によく用いられる。「繻珍」繻子織に金銀糸や多色の模様を織り込んだ絹織物。「袷(あわせ)」裏地のある着物。単衣は裏地なし。「襲(かさね)」着物を重ねて着ること。色の違いが美しさとなる。「丸帯」袋帯と違い、全面に柄の入った帯。
「注進に及ぶ」事件を急いで報告する。「錣(しころ)」兜の左右に垂らした防具。錣頭巾。「短兵急」急であること。刀剣などで接近戦を仕掛けること。「二時」明治六年、太陽暦が導入されるとともに、旧来の十二時辰に代わり、十二時間制が定められた。「伝法(伝坊)」粗暴な様子。
「教室を出る娘たちで、照陽女学校は一斉に温室の花を緑の空に開いたよう、溌と麗な日を浴びた色香は、百合よりも芳しく、杜若よりも紫である。」――うむ、女学生である。『当世女装一斑』に明らかであるように、鏡花先生の考える美人は十五から十七歳程度が本命であるらしい。まさに女学生である。
「紅入友禅」紅色の入った友禅染めか。確かに最も華やかな着物の一つであろう。「八ツ口」女性用の着物の脇の空いている部分。「不行跡」品行が悪いこと。「尻目遣い」目だけで後方を見る。流し目。「白歯」白い歯。
ユーモラスな喜劇のような描写が入る。全体的に場面ごとに区切られた舞台に近い。
「太平楽を並べる」勝手気ままなことを言う。「かさにかかる」高圧的な態度に出る。「白羽二重」白地の羽二重。純白のシルク。「賺す」言いくるめる。宥め賺す。
「飛石を踏んだまま、母様御飯、と遣って、何ですね、唯今も言わないで、と躾められそうな処。」萌えである。こういう鏡花が私は好きだ。
「水口」台所。「櫛巻き」櫛に髪を巻きつけた簡単な髪型。時間がかからないため、湯上りや、忙しい女房が結ったという。「掻巻」綿入れの寝間着。「お茶漬けさらさら」この表現は明治期からあったのか。「房楊枝」江戸時代からの歯ブラシ。「綿天」綿と絹混ぜ織りの天鵞絨。鼻緒などに用いる。
「物いわぬ目は、露や、玉や、およそ声なく言なき世のそれらの、美しいものより美しく、歌よりも心が籠った。」
美文である。妙子さんが出てくると明らかに文体が変わるのが面白い。
「愁然」憂に沈んでいる様子。「浅くとも清き流れのかきつばた」三味線の小唄である端唄の一つ。芸者の心を歌う。
「上衣を開いて、背後へ廻って、足駄穿いたが対丈に、肩を抱くように着せかける。」――うむ、これが好きなのである。
「対丈」身の丈と合った着物のこと。「細螺(きさご)」小さき巻貝。「締木(しめぎ)」植物の種子を板で挟んで搾る道具。転じて、ひどく辛い様子。
「ちゅうちゅうたこかいな」数の数え方。二、四、六、八、十。「唐縮緬(メリンス)」羊毛の毛織物。華やかな唐縮緬友禅など。
――自由結婚。見合い婚が大多数であった明治末にあってこの鍵語が出るとは、慧眼と言うほかない。この小説の主役は間違いなく、華やかな女性たちである。
なるほど、理解した。先生は、許嫁婚だったのである。駆け落ちをできなかった自分に哀しみもあろう。
「兄妹のようか、従兄妹のようか、それとも師弟のようか、主従のようか、小説のようか、伝奇のようか、」――うむ、良い。私も妙子さんに「兄様」と呼んで貰いたいという気持ちがする。
「身動ぎに端が解けた、しどけない扱帯の紅。」これはいけません、鏡花先生。帯を解いては反則ですよ。うむ、良いと思います。なお、「湯島の白梅」の場面は演劇の上演の際に追加されたらしい。やはり、原作ではヒロインは明らかに妙子さんであると思われる。
「支那鞄」木製の箱型の鞄。「樹下石上」野宿。行脚僧が樹下石上を宿とした。「向こう鉢巻」額の上方に結び目が来る鉢巻の結び方。後ろ鉢巻の逆。額の脇に結ぶのが捩り鉢巻き。「差し金」芝居で使う、針金の先に蝶々などを付けるもの。大工が使う直角に曲がった定規。「挽き子」人力車夫。「鉄砲巻き」干瓢巻き。
「擦り半鐘」火事を知らせる半鐘を激しく鳴らすこと。「帰天斎」明治期の奇術師。寄席で西洋手品を披露した。「エテ吉」猿。エテ公。「去る」の語感が商売人に忌避されたことから。
※第二部については、いずれ、精読したい。
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