見出し画像

リンキン・パークの衝撃のデビューの当事者となる

2000年は、リヴィング・エンドがサマソニで来日し、セカンド・アルバム『ロール・オン』のリリースもあり、タクシーライドのリリースと来日もあったので、僕にとってはオーストラリアの年だったのだが、ワーナー・ブラザーズから送られてきたアドバンスCDのバンドも気に入っていた。そのバンドの名前はリンキン・パーク。「ワン・ステップ・クローサー」と「ウィズ・ユー」の2曲が入っていた。10月にアメリカでデビュー・アルバムがリリースされるということだった。この当時はラップ・ロック、ミクスチャー・ロックというジャンルが流行っていて、リンプ・ビズキットがミッション:インポッシブル2のテーマ「テイク・ア・ルック・アラウンド」でヒットを飛ばし、新作をリリースし、翌年の1月に来日公演を行う予定で、日本でも人気がうなぎ上りだった。リンキン・パークにとってはこういった状況だったので、デビューとしては完璧なタイミングだったのだ。
デビュー・シングルは「ワン・ステップ・クローサー」。なかなかユニークなビデオで、スクリームするシンガーのチェスター・ベニントンとラッパーのマイク・シノダという二人のフロントマンがいるというのが特徴だった。

ただ、この当時はまだYouTubeはなく、ミュージック・ビデオはMTVやスペースシャワーやTVKで流してもらって、初めて目にするというのが、一般的だった。
アメリカ本国では、バンドのファンがストリート・チームという名で、ライヴ会場などで、サンプラーCDを直接配布したりしていた。リンプ・ビズキットのような同じタイプの音楽のファンに、サンプラーCDを渡して聴いてもらい、ファンになってもらおうとしていたのだ。
日本でも、こういった激しいロックはラジオでもあまり流してもらえなかったし、音楽専門誌からも好かれるタイプの音楽でもなかったので、直接ファンに訴えかける戦略がとられた。
当時タワーレコードやHMVでは、音楽を先取りして聴くファンが多かった。そういったファンに向けて、輸入盤をプッシュしようという戦略がとられたのだ。輸入盤の『ハイブリッド・セオリー』は、アメリカと同じく10月24日に店頭に並んだ。ものすごい反応で、売れた。当然、この時代はデジタル・リリースもないので、アルバムを聴くためにはCDしかなかった。店で聴くか、友達のものを聴くか、自分で買うしかなかった。デビュー・アルバムはアメリカ本国でも爆発的に売れたし、ヨーロッパ、日本だけでなく、東南アジアなど、全世界で売れた。言葉を超えて、全世界にアピールする音楽だったのだろう。

アメリカのセカンド・シングルは「クローリング」。日本での国内盤発売は2001年1月24日に設定され、最終的に2月7日に発売になった。今でも発売日まで、覚えているのはこのアルバムだけだ。輸入盤が売れていたとはいえ、
こういったジャンルには珍しく、一押しの新人として、日本でもリリースされることになった。
当時、マイク・シノダが日系3世であることを、大きくアピールした。バンドにとっても、日本は特別な地域ということで、この切り口で、新聞や雑誌の露出を結構稼ぐことができた。2001年1月に行われるリンプ・ビズキットの前座にしてくださいとスマッシュにお願いに行ったことも覚えている。
ただ、物事はそれ以上、早く動いていた。2月7日の国内盤が出るころには、輸入盤と合わせた売り上げは10万枚を超え、日本でゴールド・ディスクを記録していた。これは僕にとって、担当したアーティストで初のゴールド・ディスクだった。さらに、5月に東京、大阪、名古屋の3都市のクラブ・ツアーとなる初の来日公演をウドー音楽事務所が発表した。この時点で、バンドに日本では誰も会っていないし、ライヴも見ていない。僕はアルバム・リリース後、冬のニューヨークに現地取材に行った。

2月21日、ライヴ会場はマンハッタンの名門ライヴハウスのローズランド・ボールルーム。ライヴは1曲目の「ウィズ・ユー」から、ファンが大合唱。こんなライヴをそれまで見たことがなかった。しかも「ペイパーカット」では、ファンも一緒にラップしていた。ライヴはあっという間に終わったのだが、彼らがステージに残ったまま、ファンにサインを書き続けていたので、その夜は会って挨拶することができなかった。
別の日に、チェスターとマイクに通訳をいれず、インタビューをすることができた。二人は日本に来たことがなかったので、5月の来日公演を楽しみにしていた。そして、5月の再会を約束し、僕らは別れた。<初来日公演の話は次週に続く>






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?