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おいしいご飯を食べた帰り道、少し泣いた話。

「あなたと話して、よく動き出せたよ。」

相談に乗っていた人との食事中に言われた言葉を噛み締めて、帰り道、少しだけ泣いた。

相談に乗った人がすごく変化したこと、わざわざ言葉にして伝えてくれたこと。そんな言葉は期待していなかったけど、いざ言われると本当に嬉しくなる。

人の物語を支えるサービスを運営していて、個人的にも相談に乗るような活動をしていて、日々誰かの力になれることを実感すると同時に、日々誰かの力になりきれていないことを実感する。

人が人に影響できることなど、大したことはない。相談に乗ることやカウンセリングやコーチングを提供することには、できることとできないことがある。真摯に向き合うほど、限界を感じる。

個人的に、その限界を理解していても自分の周りの人に何か少しでも影響をもたらせたらいいと思ってしまう。それはただのエゴだが、ついそう願ってしまう。

万に一つ、誰かによく影響できたとき、それを伝えてもらう機会があったとき、どうしようもなく嬉しくなる。その一言で救われる。誰かを支えたいと思っていた人が、支えた人に支えられる不思議な体験をする。

力になりきれない瞬間がある。やりきれなさを痛感する瞬間がある。何もできない自分を許してほしいと、誰でもない誰かに懇願する瞬間がある。

誰もつらい思いをせず対立することなく、誰もが協力し合ってよい未来に迎える社会を夢想してしまう。そんなものは絵空事だとわかっているけど、望まずにはいられない。

何かできたと感じる瞬間よりも、やりきれなかったと感じる瞬間の方が、はるかに多い。誰かが悲しむたびに、自分にできたことは何かなかったかと自問してしまう。

自分は相手の課題に大した影響力を持てないことを知っているけど、やるせない気持ちを抱えてしまう。

そんな気持ちを抱えながらも必死にさまざまなことに取り組んでいるとき、嬉しい言葉をもらえると、自分のいままでのがんばりのすべてが報われて、またがんばろうと思ってしまう。

あぁ、自分はなんて単純なんだろうな、と思い知りながら、その単純さと純粋さを忘れずに持ち続けたいとも決意する。

そういう浅さがあるから、生きているのだと実感する。斜に構えて世の中のリアルを捉えられないくらいなら、泥臭いくらいのリアリティを感じていたい。

もっと上手に、もっと賢く、生きることもできることを知りながら、あえて効率や合理性とは遠い場所にも身を置いておきたい。

話を聞きながらずっと思っていたことを書いて、この嬉しい気持ちを締めくくりたい。

「伝えてくれて、本当にありがとう。でも、あなたが前に進めたのは、あなた自身の力なんだ。あなた自分のすごい力をこれからも信じてほしいんだ。もうあなたは大丈夫。そのまま進めば、きっと大丈夫。」



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