他人の期待は麻薬のようなもので
思えば、他人の期待に応え続ける生涯を送って来ました。
小学校では、みんながやりたがらない学級委員を。決まらないと先生が困るし、「君ならできるよ」と言ってもらえたから。
中学校では、ソフトテニス部の部長を。誰かが嫌々やるくらいなら自分がやろうと。
高校では、部活の中での嫌われ役を。誰も言わないけど必要なことを言い続けて。
社会人になってからも同じで、自分では意識できないくらい、他人の期待を自分のやりたいことだと思い込んでいました。
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「売上はすべてを癒す」とはよく言ったもので、成績や業績が良く、期待に応えられている間は困ったり迷ったりすることは一切なく。期待に応えられると嬉しくてもっと応えたくてなって。
ただ、他人の期待に依存してしまうと、期待に応えられない時の苦しみが大きくなる。
「期待に応えられるのが自分」というアイデンティティが徐々に崩壊していくような感覚。ずぶずぶと自己否定、自己嫌悪の沼にはまっていく。
そんな罵声を自分に浴びせ続けて、焦燥感や失望が職業人格を飛び越えて、暮らしにも侵食してきて。
もちろん寝ないと体力は回復しなくて、集中力も続かなくて、パフォーマンスは落ちていく。仕事は終わらず、溜まっていき、もっと明日が怖くなって、寝ることを拒否するようになる。
そんな負の循環に陥ると、もうどうしようもなくて。ぼくの場合、最後は朝起きた時、体が動かなくなっていました。
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当時を振り返ってみると、そんな状態になる前には「すごく疲れやすい」「休んでも疲れてがとれない」「集中できなくて何度も休憩してしまう」など、小さな違和感がたくさんあったのですが、それに気づくことができませんでした。
今思うできればよかったことをつらつらと。
それぞれ一つずつでnoteを書けそうなので、何もしない「よはく」をつくって、「書く」を通して、ゆっくり時間をかけて、文章にしていきたい。
体調を崩した時期から一年ほど経ちますが、(今は心も体も元気です!)それでも日々、模索は続いています。
苦しい時期を乗り越えられたのは間違えなく、近くで支えてくれた大切な人たちのおかげで。感謝と恩返しの気持ちしかなくて。
「ありがとう」の言葉では表現しきれない、曖昧で複雑なたくさんの思いは、きっと自分自身が変わっていくことでしか伝えられない。
でもその思いがあるから、目の前の一つ一つのことに、一生懸命に取り組めるんだろうなぁ、とも思います。
人と、気持ちと、向き合うということは、これから先の人生の中で、ずっと大切にするテーマの一つ。真摯に向き合える自分でありたい。
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あかしゆかさんのnoteを読んで、今回の「期待」について書いてみようと思いました。美しい文章で「期待」との付き合い方を書かれています。
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TOP写真は、沖縄・竹富島での一枚。青い空、白い道、鮮やかな風車。
最後まで読んでいただきありがとうございます。