軽やかな自由を考える
最近よく「自由」について考えています。自由であり続けることは難しいことです。
毎日必死に生きて生活をするしているだけなのに、知らない間にしがらみやルールが増え、知らない間に自分というものの輪郭がぼんやりとしてしまいます。
個の時代と叫ばれて久しく誰もが意図的にきらきらとした姿になれる時代。
自分の体は一つしかなく選び取れるものも一つだけなのに、選択肢のように見えるものが増え続け、人を迷わせる時代。
ノウハウやハウツーが溢れ、なんでも出来そうな全能感と何者にもなれない不全感が入り混じる雰囲気がある時代。
そんな時代だからこそ、
「軽やかに、自由でありたい」
と、強く思います。
嫌われる勇気を持ち、自分と他人の課題を切り分け、愛する心で、自分と世界をまっすぐな眼で見つめていたいのです。
その想いを持ち続けるには、「自分とは何者か」と「何がしたいのか」をメタ認知することが鍵になる気がしています。
自分というものの輪郭を確かめるために、さまざまなひととの交流が必要です。
ぶつかり議論する。
お互いの物語を語り合う。
一緒にいるからできることをする。
やりたいことを見つけるには頭の中から出なければいけません。
机上の空論を捨てる。
空の下で体を動かす。
実感したことを次につなげる。
自由であることは、不自由なことを認めることです。
選べないことを受け止める。
自分の課題を適切に自覚する。
自由を感じる心の感受性を保つ。
自由であり続けることは、選択と決断の連続です。
流されることは簡単で断ることは難しいのですが、「流され続けて気がついたら人生の終着駅にいた」ということがないように、毎日を丁寧に必死に生きるのだと思います。
それが自由であり続けるということなのかと思っています。
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TOP画像は、cotree Tシャツを着ながら考えているひらやま。よくホワイトバードを書きながら、うんうんと悩んでいます。
最後まで読んでいただきありがとうございます。