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31歳、いま思うこと

ぼくは、自分が何を美しいと感じるのか、自らの手は美しいものを生み出せるのか、それらが知りたくて、さまざなことを感じたり考えたりしている。

下書きした文章があったけど、どうもしっくりこないので、全部消して一から書き直している。この文章は使われないかもしれないけど、それでもここに書かれていることが面白いと思う。残り続けるかもしれないし、消えるかもしれない。複数の可能性が可能性のまま共存している、それはまさに、いま自分が、自分に感じていることそのものだ。

一年と少し、のんびり生活してゆっくり考えて気づいたことは、自分が何かをする時には、"どれだけ小さくてもよいから、自分の感性や感覚を起点に始めること"が大事そうだということだ。

それは例えば、周りの全員が反対してもやりたいと思うことだったり、誰にも言われなくても教わらなくてもやる必要がなくてもずっとやれることだったり、なぜか分からないがとてもわくわくすることだったりする。

これまで人生ではむしろ真逆で、誰かが立ち上げたことを推進したり、すでにあるアイデアを形にしたり、やれば成果につながりそうなことを優先したり、戦略や打算を前提とするアプローチが多かった(これはこれでスキルとしては良い)。

でもそういうことはもう仕事を通してこの十年でたくさん経験したので、次の十年は別のやり方をしてみようかな、面白そうだし、と思っている。


去年よりも、感覚的に捉えたことを前向きに受けとめるようになった。そう捉えるようになったのは、生活を、極めて個人的な営みにしようと努めていることが影響していると思う。

毎朝カフェラテを自分で淹れたり、昼と夜の食事を自分の胃袋の大きさに合わせてつくったり、居心地が良いように模様替えをしてみたり。

誰かや何かへの憧れではなく、惰性でもなく、そのときどきの心地よいラインを探りながら試行錯誤する。一連のプロセスそのものが、自分に必要なことであり、これから先も大切にしたいことだった。

生活というものを自分に必要なものだと感じられるようになるまでには、時間が必要だった。

通院していたクリニックでトラウマや身体性について教わったり考えたり対話したり、一年間パーソナルジムに通ったりランニングしたり、生活を楽しんでいる友人たちと話したり、好きな家具や服に触れる機会を増やしたり、東京の東側に定住するようになったり。

考えたことや感じたことを一つ一つ確かめることを積み重ねていたら、結果的に、それらが今の自分の価値観や感覚を構成するようになっていた。


去年書いたnoteに、善悪と意志についての文章があった。

純粋でなくていい。善人でなくていい。取り繕わなくていい。ありのままでなくていい。みんなが善いとするものを安易に志向せず、自分の悪の側面を大切にしたい。自らの意思を通す時、誰からも求められないがやりたいことをやる時、その行動は他人からみると悪になり得ることを覚えておきたい。

30歳、いま思うこと|ひらやま

今ならもう少し柔軟に捉えられる。いま善だと思うことを未来の自分は悪だと思うかもしれない。いま悪だと思うことを未来の自分は善だと思うかもしれない。あるいは善でも悪でもある状態と思うかもしれないし、善悪への関心すら失っているかもしれない。

多様な状態と可能性が重なり共存していると考えることで、試行や思考を放棄するわけではなく、今の自分の限界を受け入れられたり、未来の自分の可能性(必ずしも前向きな意味ではない)を開いたりすることに繋がる。

「今は想像することもできないようなことが、いつか訪れる可能性と訪れない可能性、あるいは訪れながら訪れないような可能性など、そのすべての可能性が共存している」と考えてみると、個人的には、少し気が楽になった。とても不思議な感覚だけど。


2023年11月以降、詩を書くようになった。書き始めるきっかけは、兄との些細な会話だった。一番好きなコンテンツ形式について話していて、「詩がすきだなぁ」と話したら、ふと、「そうか、自分で書いてみればいいのか」と腹落ちしていた、ごく自然に。

それ以降、ほとんど毎日、朝起きてカフェラテを淹れてから昼食までの間、詩を書いている。毎月十篇仕上がるかどうかというペースで書いていて、詩になる手前の言葉のスケッチのようなものも日々溜まっている(今数えると百六十個ほどあった)。

いざ詩を書き始めてみると、なぜ今まで書いてなかったのかを不思議に思うくらい、とてもしっくりきている。今まで文章やコミュニケーションで表現しようとしていたものたち、その源になる自分の感覚に対して適切な形が与えられたような感覚がある。

ぽつぽつと、友人や読みたいと言ってくれた人に個別で詩を送らせてもらっては、感想をもらって(本当にありがたい)勉強させてもらっていた。

ただ毎回問い合わせをもらってから送り返すのは大変(個別のやり取り自体はすきなのだけど)なので、書いた詩を、『しずかなインターネット』に置くことにした。

SNSのようなつながる機能がなく、読んでもらった感想がもらえる窓口(感想レター)があり、半クローズドのような空間に公開しておけるのがよかった。有料noteでもよさそうだったけど、お金をとりたいわけではなかった。

まだうまく言葉にならないけど、詩は、自分のすべてのインプットの、最終的なアウトプットの形になるのかもしれないと感じている。万能という意味ではなく、それくらい器の大きなものだと感じている。

たくさん書いたり、ぱったりと書かなくなったりする期間もあるだろうけど、五年、十年、細く長く続けていきたい。まとまった数が溜まってきたら紙の本で詩集をつくりたい。


詩を考えている時も誰かと話している時も、自分がその人の活動や生活の全断面を見られない以上、その人がどんな人で何を考えている人かを断定することは、決してできない。人以外に対しても同じで、「自分が一人の人間である以上、どれだけ頑張ってもわからないことが存在する」という感覚を、強く感じる。

自分が、誰かのある側面を見たと思った時、同時に、自分から見えない側面の存在、その気配(見えも触れえもしないので、ただ、あるかもしれないと思っているだけ)を想像するようになった。

これはイメージの話だけど、自分の視界と世界には、必ず、盲点のような自分からは見えない点があり、その点の先には無限の奥行きと広がりがあり、自分からは見えない未知の世界が広がっている。それらの断片が気配のようなものを生んでいるような気がする。

その気配を感じた時、自分にできることは、それらの静謐を祈ることぐらいだった。見えも触れえもしないけど、おそらく存在すると感じること(それはまるでの神のような概念だけど)に対して、個人的な生活を送りながら、詩を書きながら、それらを祈りとしている。大げさなことではない、そういう生き方しかできないから、そうしているのだと思う。

こんなとりとめもない文章を公開してよいものかと悩みながら、これはまぎれもなく今の自分なのだから仕方がない、と開き直ってもいる。

来年もまた、自分が生まれたこの季節に、その時感じていることを振り返る時間を持てたらいいな。

31歳のひらやまをどうぞよろしくお願いします。


最後まで読んでいただきありがとうございます。