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自分の機嫌は、自分で取りたい。

あぁ、ぼくには、きみを救えないんだね。

そう直感することが、まれにある。

もとから自分が誰かを救えるなんて思っていたわけではない。自分が無力な存在であると卑下していたわけでもない。ただ自分と相手の間で、何かが決定的に分かれてしまったような感覚が自分の中に残ることがある。

人には、それぞれの正義がある。SNSを通して、自分に近い価値観の人と簡単に出会えることはすばらしいけど、その簡単さは、自分と異なる価値観の人と共存する胆力を奪っているのかもしれない。

一人ひとりが圧倒的に異なる存在であるなら、話が合わなかったり相手を理解できなかったりすることは、とても自然なことだ。

同じくらい自然なものに、人が生きて死ぬことがある。単純化するとあっけないけれど、その過程には数え切れない人の営みがあり、人の一生には無限の奥行きがある。

人と人との違いの間にも、たくさんの営みや奥行きを感じる。喧嘩の仕方もわかりあい方もわかりあえなさも、人の数だけ種類がある。

人と人とはわかりあえない、という単純な結論で考えを止めず、自分なりの形を考えたい。人と世界を深く理解しようと努める人の心には、豊かさが生まれてくるから。

直感に対する解釈は、悲観的ではなかった。

ぼくは、ぼくしか救えない。
きみは、きみしか救えない。

救う救われるの定義は、個人の無限の奥行きの中で決まる。相手が救われたこと、あるいは救われるべきと決めることは、自分にはできない。自分が救われるか、救われたいのかを決められるのは自分だけた。

そんなありふれた真実に気づいても、誰の役にも立たない。だけど意外にも、自分の役には立つことがわかった。

ぼくを救えるのは、ぼくだけ。
きみを救えるのは、きみだけ。

だからこそ、いまの自分が感じる日々を、精一杯過ごすのだと思う。

自分の人生で起きるすべての出来事を自らの姿勢への問いとして、自分を主語にして自分の人生に責任を持つ覚悟を、何度も何度も思い出す。思い出すたびに、気持ちを新たにできる。その繰り返し。

いつでも、いくつになっても、自分の機嫌を自分で取れる人でありたい。


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