自由であることの意味
思惑やくわだてを感じることがある。必要以上に感じてしまっているかもしれない。
誰かの作為が見え隠れしたとき、途端に気持ちが静かになってしまう。意図はどうあれ、そのまま進むと自分の気持ちがないがしろにされてしまうかもしれないからだ。
自分の利益のために他人をだしに使うこと、それらの気配を感じるときがある。
その気配の奥には、練られた戦略と隠された悪意がある。悪意の罠にかかってしまった人たちは、さまざまなものを奪われる。奪われているという自覚すらなく奪われてしまう。
感じた悪意は、自分の思い込みかもしれない。
自分が悪意を感じたからといって、その人に悪意があるとは限らない。指摘したからといって、悪意がたちまちに消えることはない。それを感じて思うことは、自分の行いが善意による悪意にならないように省みることくらいだ。
悪意に対する報復は、さらなる報復を生む。
取るべき戦略は、悪意による企てが無意味になる環境をつくることだ。善意による行いが、良い結果を生むような環境をつくることだ。
対立ではなく、協力を。
奪い合いではなく、分け合いを。
いがみ合うのではなく、助け合いを。
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自分の答えの一つは、自由でいることだ。
自分が信じる道を誠実に進むこと。半径5m以内の人とできることをしていく。多くを望み誰も救えないよりも、まず目の前の一人を支えること。一人ひとりのバトンをつないでいくこと。
簡単でもない、近道でもない、賢くもないかもしれないけど、自分ができるやり方は、これくらいなんだ。
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