なんだかなぁ‥。

十連休をカバーするのは、本当大変でした‥。
とはいえ、全てがひと段落したような落ち着きがで始めて、少し現状に慣れてきた様な気もします。
今日の五月末で、一年余り一緒に助け合って失敗し合いながらやってきた同僚が今日で最後ということで、殺伐とした空気のなかで助けてもらってきたところが多々あったので今後の事を思うと寂しく感じられて、物悲しい気分になってしまいました。
本当は自分ものんびりとは身構えておれないのですが、今は腰を下ろした機をみる段階にしています。
暫くはせつない気持ちが残りそうです。

世間の事を思えば、令和はじめのこの五月はやけに物々しいところがあって、ええ‥そんなことあるの‥というような事が色々とありましたが、得ようとしなくても入ってくる情報というものがやけに存在感強く、すい星のように人の印象を引っ張っていくなかで、どうやって意識的に距離を置くかということが試されていたようなところがありました。
世の中失礼なやつだらけで、呆れてしまうところがありますね。

なんだか、死がやけに軽薄にみえる。
たとえば川崎の事件で、死にたいならひとりで死ねと言うな、いいやそれも正論、という場面、被害者がまさに死に直面させられて、遺族はその死というものを痛感させられているのだろうし、その加害と自死の情報に接した自分たちもまた死というものを強く意識させられているなか、なぜに余計に過敏に感じさせられる物言いを、或いはそれをわざわざ引き合いに出すことによって、死をよぎらせられねばならぬのか。
これは一つには、専門的な立場から加害者の生い立ちの情報が出回っていたことで似たデリケートさを抱える普通の人たちに悪影響を与える考え方がそれだという視点からの言論なので反意語ではあるし、元々死という言葉を簡単に使う方がそもそも間違っているのだと思うのだけれども、今拾うべきでもなかろうと。
死を避けて慎み怒りを表現する配慮は当然のものだろうと。
勿論これに限った話ではないのだけれども、そういう死ぬをリンクするようなものごとの積み重ねが、最近やけに気になるのです。
ずっと死をみせつけられている気がする。
なんて不条理なことなんだろう。

まさかこんなにも哀しい気分で終わるなんて‥。

自分の日常を少し楽しく。つれづれつらつら‥