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1996年からの私〜第1回(96年)できない理由は探さない

自分の記憶を記録にしておこう

気づけば週刊プロレスの編集長を辞任し、ベースボール・マガジン社(BBM)を退社してから10年。一度は違う世界に行くことも考えたけど、結局、人が好きで、取材、制作の日々を続けています。ありがたいことに近年はテレビやイベントMCなど、タレントとしての仕事も増え、忙しくも楽しい毎日。基本的には人の話を聞く側のため、自分の話をする機会はありません。

しかし昨年はラジオ、パンフレット、週プロ関連書籍で立て続けに自分のことを話す機会があり、思った以上の反響をいただきました。そもそも、現在一緒に仕事をしている人の大半は私がプロレス雑誌を作っていたことは知らないですからね。この仕事を始めて20年以上が経ち、たくさんの素晴らしい人と出会い、そのおかげで少しは人として成長してきたと思っています。人との出会いは私にとって最大の財産です。


人間の記憶はスマホやPCと同じで容量制限があるため、いっぱいになると不要な記憶から消去されていきます。忘れてしまう前に記録をつけておこう…という意味で、歩んできた日々を綴っていこうというわけです。出会ってきた素敵な人々、そこで学んできたことの記録です。日常でヒマな時間、つまり通勤時間にスマホでピコピコやっているので、普段の原稿とは勝手が違います。仕事ではないので、多少読みづらいところがあってもご容赦ください。

BBMからの門前払い

さて、まずはこの仕事にたどり着くまでを振り返ってみましょう。そもそも大学に進学する時から将来はマスコミで働きたい、雑誌をつくりたいと思っていました。レスリングの実積があったため体育系の大学から特待生扱いの推薦の話もありましたが、就職を考えてそれらは断り、マスコミに強いという評判のあった青山学院大学に進学します。

時は流れ、大学3年の年末に就職を目指してベースボール・マガジン社に資料請求を送りました。それから約1週間後、BBMから「本年度は採用の予定がありません」と味気ないハガキが届きました。就職活動は早くも暗礁に乗り上げます。

閉ざされた道をどう開くか? ヒントを求めて、出版関係の就職セミナーに参加。そこには主婦の友社の人事の方が講師として来ていて、セミナー後に個別に話を聞いてくれました。私が入りたい出版社から採用の予定がないという通知があったことを伝え、翌年まで機会を待つしかないのかと問うと、かなり的確なアドバイスをいただけました。

「会社単位では募集していなくても編集部単位では人を求めている可能性はある。アルバイトから社員になる方法もあるし、常駐フリーという方法もある。週刊誌ならなおさら人を求めている可能性はある」

この言葉を聞いて、即行動。週プロ、週刊ベースボール、週刊サッカーマガジンの週刊三誌の編集長宛に熱い思いを込めた手紙と履歴書を送ったのでした。

人間はみんなできない理由を探す天才です。少し困難な状況になると、これでもか!と言わんばかりのできない理由を引っ張ってきて、自分を正当化します。できない理由は簡単に探せるので、それよりもできる方法を探したい。こうして私は長く続く編集者生活への一手を打ったのでした。

ちなみに格闘技通信で仕事を始めた日が2月28日。というわけで、最初の公開日にしました。

つづく


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