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武藤敬司引退試合をどうやって試合リポートするか?

2・21東京ドームにて、武藤敬司選手が引退試合をおこないました。平日開催にもかかわらず、3万人を超えるファンが集い、本当に素晴らしい大会となったと思います。

その引退試合のリポート的なことを書いていこう…と思ったのですが、これは遠慮させていただきます。古巣の「週刊プロレス」が本誌、増刊号でたっぷりリポートしてくれるので、そちらをご覧いただけると幸いです。武藤選手引退試合は市川亨、井上光の両記者が、それぞれ本誌、増刊でリポートすると聞きました。彼らは私が20代の現場記者だった時代に、一緒に現場に行って指導してきた後輩であり、それから20年近く経験を積んでいるので、きっといい原稿を書いてくれると思っています。ぜひ週プロを!

というわけで、ここでは週プロ記者なら、試合をどういう視点で見ているのか?という話を書いていきたいと思います。それをどう書くかは置いておいて、今回の試合でポイントとなる部分をクローズアップ、解説していきましょう。

最大のポイントは「最後の武藤作品」をどう見るか?ということです。対戦相手が内藤哲也だったこと。ハムストリングの肉離れで闘える状態ではなかったこと。舞台がドームだったこと。最後に蝶野正洋をリングに上げたこと。10カウントゴングがなかったこと…etc

こうした切り口を分析、解説し、「なるほどな」と読者の方に思ってもらうのが週プロのリポートだと私は考えていました。試合展開をなぞるだけならネット速報で十分であり、試合を見ていれば誰でもできることです。そのため、試合展開の詳細はリポートに組み込むのではなく、別枠の囲みで記載するのがビックマッチでのやり方でした。

東京ドーム大会の意義


武藤選手は平成新日本のドームプロレスの申し子でした。95年10・9の髙田延彦戦をはじめ、いくつもの作品を残してきています。やはり、最後の舞台としては、東京ドーム以外には考えられなかったと言っていいでしょう。小橋さんの引退試合が日本武道館、天龍さんの引退試合が両国国技館だったように、選手にはそれぞれ思い入れの強い会場、似合う会場があり、武藤さんの場合は東京ドームだったということです。

このドーム大会には、NOAHへの恩返しという要素も含まれていると思っています。武藤さんとは引退発表後も何度かイベントでご一緒することがあり、事あるごとに「NOAHを潤わさないと」「NOAHに恩返ししないと」ということを口にしていました。最後に輝ける場を与えてくれた、NOAH、サイバーファイトにすごく感謝していたのです。

収益的な部分だけではなく、選手たち(スタッフも)への経験値として、このドーム大会が大きな財産になったことは間違いありません。NOAHの選手でドームを経験しているのは、丸藤正道選手、小川良成選手、杉浦貴選手、潮﨑豪選手ら数人しかいません。「大会場で闘う経験を与える」という、武藤さんからの最後の置き土産と考えることもできると思います。この経験は必ずや、今後のNOAHの力となることでしょう。

話は逸れますが、清宮海斗選手とオカダ・カズチカ選手の試合で見えた差は、大会場での試合経験の差が大きかったと思っています。負けた言い訳とか単純な理由ではなくて、試合会場、試合順、タイトルの有無など、違うシチュエーションだったら、見え方は違ったのかなと思います。この試合についてすべて解説しようとすると、だいぶ文字数を必要とするので、今回は控えておきます。

肉離れとムーンサルト

話を引退試合に戻しましょう。

武藤選手は1・22横浜アリーナでのグレート・ムタファイルで、ハムストリングを肉離れして、とても試合ができる状態ではありませんでした。引退試合の数時間前、偶然バックステージで顔を合わせたとき、車いすに乗って移動していました。その姿を見たときは、リングに上がってくれるだけで十分だと思ってしまったくらいです。

ところが武藤選手は、30分近く闘い、最後も自分の足で花道を引き上げていきました。天才は鉄人でもあったことを証明したわけです。

このケガという部分からポイントとなったのは、二度にわたって狙ったムーンサルトです。試合後、武藤選手はこの場面について、こう語っています。

「ムーンサルトも飛ぶガッツがなくて。昔、『プロレスのためなら足の1本、2本あげてもいい』って言ったことがあるんだけど、あげられなかったな。俺は嘘つきだよ。(コーナーに上ったとき)家族や医師が怒ってる顔で頭に浮かんできて躊躇しちゃったよ」

ケガの影響で「飛べなかった」のではなく、自分の意思で「飛ばなかった」ということです。試合リポートでは、ここが一つのキーになります。また、コーナーで止まって考えるシーンは、プロレス史に残る名場面の一つとなりました。ムーンサルトを飛ばすして、記憶に残る名シーンを生み出してしまうところも、武藤選手の天才たる所以でしょう。

対内藤、対蝶野という最後の作品

そして最後の対戦相手が内藤哲也選手だったことにも触れておきましょう。元日のグレート・ムタvs中邑真輔が歴史に残る名作であり、ケガを抱えた武藤選手との試合で、それを上回れというのは、内藤選手にとっては、かなり酷なシチュエーションでした。

ただ、内藤選手の闘いぶりは本当に素晴らしいものでした。細かい部分で言うと、大きなドームで大きな動きが少ない試合でありながら、リング上への集中力を途切れさせなかったこと。これは二人が、ビジョンがあることも踏まえて、表情や目線に変化をつくり、わずかな動きや、あるいは大きな仕草で、ドームの空気を支配していたからです。元々、大の武藤ファンだったこともあり、感傷的な気持ちがなかったはずはありません。それでも、内藤哲也を貫き通したことで、ある意味で武藤敬司を輝かせたとも言えます。

試合後、武藤さんは「オレの引退試合の相手をやって、これからプロレス界が盛り上がらなかったら内藤のせいだよ」と言いました。それだけの責任を背負える選手だと認めている意味であり、これは最大級の賛辞ではないでしょうか。内藤選手は本当に素晴らしい試合を見せてくれました。

「作品」という意味では、武藤敬司引退試合は、内藤戦だけでなく、蝶野正洋との延長戦も込みでの作品となります。実は、このボーナストラックには伏線がありました。昨年12月、武藤さんと蝶野さんのトークショーの際、武藤さんは改めて蝶野さんにラブコールを送っていたのです。

「よくさ、コンサートとかで終わったと思ったらアンコールでもう1回出てきて、もう一曲歌うってあるじゃんよ。蝶野、ドームであれやろうぜ。俺が動けるかわからないけど、引退試合が終わった後にもう一丁だよ。デビュー戦の相手と引退試合の相手が一緒って今までプロレス界でないでしょ。蝶野、俺と引退試合やろうぜ」

トークイベントを盛り上げるためのリップサービスとも考えられましたが、私は武藤さんならやりかねないなと思っていました。実現したときのサプライズ感がなくならないように、当時のTwitterでは「今回話したことが実現したらすごい」と匂わせるだけにしておきましたが、武藤さんはやっぱりやってくれました。

急な呼びかけに応えた蝶野さんもさすがでした。入場時に持っていた凶器のような杖も、1月の川田利明さんとのトークイベント時から新調していたもので、闘いの舞台に出ていけるように想定してのものでした。わずかな時間でしたが、蝶野さんが、いざというときのためにコンディションを整えていたことも伝わってきました。二人がリングで対峙しただけで最高でした。

こうして、武藤さんは「引退試合で二度負ける」という、前代未聞の作品をつくりあげたのです。最後まで作品にこだわった武藤さんらしい引退試合だったと言っていいでしょう。

駆け足でポイントをチェックしてきましたが、武藤敬司引退試合は、まさしく「語れるプロレス」というやつでした。堅苦しいことは抜きにして、ファンとしては、みんなで「ああでもない」「こうでもない」と、ビールを飲みながら語り合うプロレスが最高なんです。

昨今はSNSでコソコソ、グチグチ言う楽しみ方(?)をしている人も多いようですが、コソコソ、グチグチよりも、飲みながらオープンに語り合うほうが楽しいことは間違いありません。プロレスは無限だから、解釈は人それぞれでいいんです。正解は人それぞれです。楽しんだ者勝ちなんです。自分の楽しかったポイントを語り合うと、どんどん見る目が養われて、どんどん楽しくなっていきます。そんな気持ちも改めて思い出させてくれた引退試合だったなと思います。

武藤さん、39年間、本当にお疲れ様でした。まだ一度もご馳走してもらったことがないので、今度退職金でご馳走してください!
(武藤さんに届け!)

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