1996年からの私〜第24回(09年)暗黒の編集長時代に週プロ1500号
感謝をこめた1500号記念イベント
前回までに書いてきたように、2009月6月13日に三沢光晴選手がリング上の事故で命を落としました。その後、私は週刊プロレスの編集長として、いくつもの難しい決断を迫られ、その都度「これで良かったのか?」と思い悩んでいくことになります。今ならわかることも未熟だったこの頃の私には、わからないことがたくさんありました。何が良くて何が良くないのかわからず、人生の迷子状態に。
9月27日と10月3日、東京、大阪で三沢さんの追悼大会が決まると、BBMでは関連商品の制作、販売を決定しました。お別れ会会場での物販には断固反対しましたが、ファンの方の心に残る作品をつくりたいという気持ちはあったので、このタイミングでメモリアル写真集を制作することになりました。
デビュー時からの写真をすべて引っ張り出し、一次選考→二次選考と絞り込み、三次選考あたりで誌面に掲載するものが固まっていきました。写真だけでなく、より三沢さんの素晴らしさを伝えるため、「三沢光晴の言葉」と題した読み物も掲載。バックナンバーを全部読んで時代ごとに言葉をチョイスしていきます。週刊誌と並行してその制作を続けていきましたが、写真集は週プロの作品ではなく出版部の作品扱いであり、会社の業務として私は働いていないことになっています。このあたりの説明が難しいのですが、いびつな構造により、会社のお偉いさんと衝突し、その場で辞表を叩きつけようと思うくらい嫌な思いをしました。
この件は相手側(すでにBBMを退社している人)に救いの余地がなく、詳細を書けばプロレスファンの方が不快な思いをするので控えます。こうした社的に自分より上の立場の人の暴走と闘うことに疲弊し、また私のスピード出世を快く思わない一部の社員の妨害工作にも嫌気がさし、一日も早く週プロの編集長を降りたいと思うようになっていきました。
編集長就任時、週プロは断崖絶壁、土俵際一杯の状態でした。自分がコケたら中学生時代から愛読していた雑誌を潰すことになってしまう。なんとか守るという一心で、日々いろいろな障害と闘ってきました。そうしたなかでこの年、週プロは創刊1500号を迎えます。しんどい中でも存続し続けられたのは、毎週購読してくれる読者の方がいるからこそ。この1500号のタイミングで、その感謝を示したいと思い、イベントを企画しました。
2000年の1000号記念のとき、2003年の創刊20年のときも記念イベントと題してトークショーを開催しましたが、もっと面白いことをやりたいと考え、週プロだからこそできるイベントを開催しました。
場所は新宿のアントニオ猪木酒場。ご存知の通り、猪木さんは歴史上もっとも多く週プロの表紙を飾ってきたレスラーです。イベントは武藤敬司選手の乾杯の音頭(&ミニトーク)から始まり、風香選手&栗原あゆみ選手(渋谷シュウ選手が飛び入り)のガールズトーク。アニマル浜口さんの気合い10連発(直前で事務所NGとなりVTR出演)。飯伏幸太選手vs中澤マイケル選手の酒場プロレス。丸藤正道選手トークショー(with杉浦貴選手&青木篤志選手)。締めは人気連載、棚橋弘至選手の生ドラゴンノート。コース料理と飲み放題がついて8000円〜1万円くらいの格安設定にした記憶があります。
目的は儲けることではなく、読者の方への感謝なので、赤字にさえならなければいいという価格設定にさせてもらいました。会場キャパの関係で限定200名。チケットは一瞬で完売。当日は来場した皆さんに喜んでもらえたと思っています。
1500号で実現した夢とターザン復帰の裏側
また、会場に来られない読者のために、1500号では「あなたの夢叶えます」という企画も用意。これは読者の方からプロレス、プロレスラーに関する夢を募集し、それを週プロの力で実現させるというもの。多くの団体、選手に協力してもらい、たくさんの夢を叶えることができました。
このなかには勝愛実さんという中学生から「日向あずみ選手にインタビューしたい」という夢のリクエストがありました。誌面で実現したインタビューで、日向選手から「プロレス教室に来なよ」と誘われた勝さんは、それから2年の時を経てJWPでプロレスラーとしてデビュー。一つの企画からとてつもなく大きな夢が生まれたのでした。
イベントでも、誌面でも、記念号を通じて私がやりたかったことは、とにかく読者の皆様に感謝の気持ちを伝えることでした。この頃には編集長を降りることをうっすらと考えていたので、苦しい時期も応援してくれた読者の皆様に感謝を届けたかったのです。
1500号の特別企画は他にもあります。創刊時からの人気連載を1号限りの限定復刻。週プロの歴史を語る上で外すことができないターザン山本元編集長にも人気連載だった「ザッツ・レスラー」を執筆してもらいました。
実はこのとき、山本さんを使うことはタブーでした。実際、前年の創刊25周年記念ムック制作時には「ターザンは使うな」と会社からのお達しがあり、山本さんに登場してもらうことは叶いませんでした。
なぜ山本さんがNGなのか? これは2003年のある出来事がきっかけ。佐藤正行編集長時代に、極秘裏に山本さんの編集長復帰が計画されていたのです。それは編集部員はもちろん、佐藤編集長にも内緒で進められた計画でした。ところが正式発表を前に山本さんが当時連載をしていた週刊ファイト紙で、週プロに復帰することをフライング。これにBBMの池田社長が態度を硬化させ、話は決裂。以後、山本さんが誌面に関わることはNGとなったのです。
しかし、私は1500号では絶対に山本さんを登場させるつもりでした。事前に会社におうかがいを立てれば間違いなくノーとなるので、御法度なことを忘れていたフリをして、執筆をお願いしたのです。我々は読者のため、プレーヤーのために本をつくっています。くだらない会社の事情など、そこに入り込むべきではありません。創刊25周年ムックのときに「なぜターザンがいない?」という声が多数届いていたのに、ここでも無視するのは読者にとって不可解で不利益。また、前述したように一日も早く編集長を降りたいと思っていたので、これでペナルティを課せられても構わないという開き直りもありました。
モノクロ1ページだったこともあってか、結果的には大きな問題となることもなく、のちにBBMと山本さんの雪解けの一歩となったみたいで、これはやって良かったと思っています。
2007年からの暗黒の編集長時代の中でも、この年はとくに多くの難題が降りかかり、心身ともに疲弊しすぎました。三沢さんが亡くなってからいくつもの難しい決断をすることになった1年を経て、翌2010年には週プロ、そしてBBMを去る決断をします。これは私にとって難しい決断ではありませんでした。
つづく
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