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疑うか信じるか

いつの頃からか、人のことをあまり信用せず、人に頼ることなく過ごしていた。小さい頃はみんないい人に見えたし、好きな人ばかりがそばにいたような気がする。それは錯覚だったんだと、はたと気づいた時、心を深く閉じたのだ。

でも、その閉じた心をこじ開けてくれたのは、やはり人だった。また、人を信じてみようと少し心を開いた。しばらくはそれで良かった。出会いに感謝して有難いと思っていた。有難いと思ったから、出来る限りを尽くす。思いをかける。そのうち、様子が変だと感じるようになる。その違和感は、対等でない関係性が出来上がっていたからだった。

人は自分に幾度も頭を下げる者をどんどん下目に位置づけて見ていくものなのか。いや、この際人の気持ちの変化など関係ない。自分がいけなかったのだ。対等を願うなら、自己主張も時には必要だった。何でもかんでも易々と相手を受け入れていたのでは、いつしか都合の良い○○となってしまうのだ。そういう状況を作っているのは他でもない自分だったのだ。

そうと分かれば、意を決して自己を主張する。今まで言えずにいたNOを突き付ける。今まで言えなかったNOは、相手にすれば青天の霹靂。返ってくるはずのない答えにネジの外れたその人は、軽く正気を失い、本性を晒していく。そうして、そこまでして、そこまで言われて初めて、私は初めてこの人は信用してはならない人だったと気づくのだ。大バカ者だ。

人を疑ってかかってばかり過ごすのは、心が疲弊する。かといって人を信用しすぎると馬鹿をみることがある。人との関わりはとても難しい。

信じられぬと嘆くより、人を信じて傷つく方がいいと金八先生は歌ったけれど、どちらも悲しい。信じていい人を見極める目等を持てれば、悩むこともなさそうだけれど、信じられる人を演じている人というのは実に巧妙に化けている。そして人の心の弱さに寄ってきて、信頼を食いつぶしていく。

信じられる人を信じられるようになるには、自分の心を強くすることと、優しさと強さのバランスは崩してはいけないということなのかな…と学んだろくでもなかった出会いの話。

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