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自由を求めて

反面教師という言葉があるけれど、親子において無意識にそうなっていることが多いように思う。自分が親にこう育てられたから、同じようにしようと思うことも確かにあるだろう。その反面、反発する場合だってあるのだ。絵に描いたような親子のイメージそのままの現実ならば前者であろうが、親も一人間であって、どんな子供も憧れ、手本に出来るような完璧な親など、実際にはそういないはずだ。ましてや、子供も一人間だ。受け取り方が違えば、同じ方法でも違う感情が生まれるというものだ。

厳しくキチンと育てられた彼女は、堅苦しさに反発し自由を求めた。自由を求めて家を出たが、何でもありのただの自由は、彼女の求める自由ではないことを知らされる。自由とは己が由とすることだと知ったのだ。己が由とすることが自由。自由を手にするには自分で自分を明らめて、考えねばならない。そして、何も考えが無かった自分に気づいて落胆したのだ。

彼女はやがて結婚して子供に恵まれた。自分は自分の母の様にはしないと心に決めた彼女は、所謂、放任主義の子育てを試みる。「自分で考えなさい。」「あなたはどう思うの?」が彼女の口癖だった。だが、経験も知識も生まれてから数年しか経っていない小さな子供には些か早すぎた…。ただただ広く雄大な場所へ「さぁ!」と放り出されても、立ち尽くすしかないのだ。良くも悪くも、正しいか正しくないか等は別として、一つの指針が必要なのだ。子供は母を見る。母が嬉しそうな顔をする時を探る。それを繰り返してある時、母が喜ぶ人生を歩いていると気づいた子供は、自分はどう生きるかを考え始める。漸く、本当の自由を求め始めるのだ。

その子供に子供ができた時、どう子育てするだろう。反面教師という流れがあるとすれば、厳しくキチンと育てるだろうか?もしくは、自分と同じ放任主義で育てるだろうか。子育てに正解も不正解もない。良かれと思ってすることだ。結局、いずれどの子も自分で自由を求めていくものなのかもしれない。自分のやり方、タイミングで。親は淡々と見守るしかないのかもしれない。自分のことを信じて、見ていてくれる人がいる!ということは、何を教わり導かれることより重要なことかもしれない。

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