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『好き』と『できる』のバランス

自分の『好き』と『できる』のバランスを近頃探している。

父が亡くなる少し前から、「私には何もない。」と突如気づき、閉ざして無くしてしまった『LOVE』と『WANT』を探してきた。そして、近頃、集めすぎていることに気づいた。
苦手なことを頑張って出来るようになると、嬉しいし達成感が半端なくある。でも、頑張るべきは、頑張らずともすんなりとできる得意なことを更に頑張る方がいい…とどこかの誰かが言っていた。

何度か引っ越しをしてモノは減ったと思うがそれでも多い。母が捨てられずに置いていた幼稚園の頃の絵があった。私のと妹のである。
家族の皆、絵を描いたり作ったりと言う分野は妹より私の方が得意だと思っているが、実はそうでもない。幼稚園の頃に描いた絵は、妹の描く絵の方がはるかに芸術的だ。野生の息吹を感じる。
「まる虫」、「カエル」。このふたつをやたらと描いている。今では点ほどの小さな虫でもギャーギャー騒ぐし、カエルなんて失神しそうな勢いなのに、幼稚園の頃は違ったようだ。まる虫ばかり捕まえて遊んでいたし、カエルの卵をみつけてはしゃいでいたそうだ。
しかし、絵をみたところで、そこには全く「まる虫」も「カエル」らしきものもいない。パッションで感じたソレが描かれているのみだ。当の妹は、皆と違っているのを感じて、自分は絵は苦手だと思い込んでいたらしい。ある時、母に「これはいい!」と褒められて、ただただ不思議だったという。
以前、どこかのマガジンでも描いたが、NHKの『ヘウレーカ』で「人はなぜ絵を描くのか。」というのを放送していたのだが、その中で、目や鼻、口を認識しだすと説明的な絵になる…というようなことを言っていた。妹の絵は明らかにそれ以前の絵である。番組では、ゴリラの描く絵が紹介されていたがそれに近い。
そういう絵を描きたいが、私には無理だと分かっている。妹ですら大人になった今は無理なようだ。だが絵を並べて、私は進むべき道を間違っているかもしれない…と思わされた。
そう言えば、ずっと前にも同じようなことを考えたことがある。
「降ってくる。」
私が大好きな絵描きで、かつての同僚だった彼女はキッパリとこう言った。白い紙に描き始めていくとそのうち降ってくるのだそうだ。神がかっている。
かつて、岡本太郎は「芸術は爆発だ!」と叫んでいた。
絵を描く人にも色々なタイプがある。正解はない。ただ、自分がパッションで描かれた絵が好きだというだけだ。好きだから、自分でもそういう絵を描きたいと思う。でも、自分では描けない。陳腐な思考が邪魔をする。
「好きとできるは違う」と誰かが言ったけど、問題はそこである。
「好きこそ物の上手なれ」とも誰かが言っている。「そうですか?」と頑張ってみるが、この場合、頑張らない方がいいに決まってる。
行先は決まっているのに、行き方が違う。電車かバスか、車か自転車か。
正に今、行先に辿りつく為の手段を探っているところだ。ずっと探している。いつまで探す気だろう。…死ぬまで探すのだろうか。
人それぞれ持ち味が違うのだ。そういって卑下することを嗜めてみる。
それにしても…、憧れる。
モノの断捨離に加え、「好きだけど簡単にできない」のに手放せないでいるモノを探して明らめようとしている。本当に、つくづく面倒な性格だと自分で呆れる。

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