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水曜日のひだまり 青い怒り

『芸術というものは美しく、心地の良いものではない。』
と、小林秀雄は何かに書いていた。
私の学生の頃のバイブルは小林秀雄の本だった。絵を描かない、評論家の言うことだと言う人もいたが、私にはとても興味深かった。芸術とはなんだ?という安易に答えの出ないものに、答えがあるものだと思っていた。芸術って言ったって色々あるけれど、自分が心惹かれるそれの答えにとても近いところにある様に思われた。
最初に小林秀雄の名前を知ったのは、母からもらった『Xへの手紙』が最初だった。母が若かりし日、家出の締めくくりに、これを読むといい…と餞別代りに友人から贈られたのが、その本だった。古い文字表記がとても読みにくかったが一センチにも満たないその本をすぐに読んだ。そして、他に書かれたものを読みたくなったのだ。下宿に憧れていたが、結局、一時間半をかけて毎日大学へ通った。その通学時間は人間ウォッチングと読書の時間だった。大学で講義を受けるより、価値がある様に感じていた。それまで、勉強もろくに出来なかったのは棚の上の方へと押し上げて、全く生意気な学生だったと思う。何にも分かっていないくせに、分かったような気になっていたのだ。そんなひと昔もふた昔の本を読んでいたからか、元々の自分の気質か、当時もてはやされていた『芸術』や『アート』に心がふれずにいた。

先生の個展を見に行く機会があった。水曜日の先生は、とても穏やかで可愛らしいおじいさん先生だったが、描く絵は怖かった。おどろおどろしいというわけではない。どこまでも続く、青く澄み切った空か海かの空間に、卵や能面が浮かんでいる。その静寂の中にある緊張感が怖かった。とても静かな怒りにも感じられた。
「たまごとにわとり、どっちが先や思う?」
そんな子供のなぞなぞみたいな問いについて、真剣に考察しあったりした。散々、あーでもこーでもないと話した後、結論が出ず、
「不思議やな。」
と終わる。
能面は、一見すると穏やかな表情に見えるが、不意に狂気を感じた。
能面は能楽に使われるのものだが、喜怒哀楽あらゆる場面があるにも関わらず、それほど多く数があるわけではない。その時々の場面によって、見るものがその面の表情をくみとって見ている。能面は、無表情の様に見えるが、微かな表情の動きが彫り作られている。その微かな表情によってどの表情にも見ることが出来るように作られている。…と聞いたことがある。
白い壁面に一斉に展示された先生の青の世界の真ん中で見る時、私にはそれらが優しく微笑んでいるようには見られなかった。
『心地よいものではない。』小林秀雄の書いた活字と目の前の青い世界がリンクした。
私には描けない。そう確信した。その時の自分には怒りや憎しみ、不甲斐なさや絶望が何一つなかったからだ。高々、失恋くらいのものだった。人の痛みも分からないほど呆けた幸せものだった。

あれから十年、二十年近く時が過ぎた。その間、私は何一つなかった諸々の負の感情が、自分の中にも湧き出てくることを知る。
誰にも言えず、泣くにも涙さえ出ない。誰かを悪者にもできず、ただ、拳を握りしめて気がおかしくなるくらい辛すぎた時、一枚だけ殴り描いた絵がある。十年くらい前だと思う。暗く不気味な背景に、月の光に微かに照らされたピエロを描いた。描き上げた絵のあまりの不気味さに、奥の方へ隠すように仕舞ってあったけど、もしかすると自分史上、一番『心地よいものではない芸術』に近いかもしれない…なんて思った。
あんな思いの中でしか生まれないのだとしたら、『芸術』はとんでもない世界だと思う。それをたった一枚でなく、何枚も何枚も描くのだ。画家が精神を病んだり、病気になったり、歪んでいくのは仕方のないはずだと合点がいく。
今でもあこがれの世界ではあるが、自分には描けそうにもない。感性が鈍ってしまったのかもしれないが、紆余曲折、曲がりなりにも、今は心穏やかだからだ。
画家が健康的でいて、人の心にふれる芸術は存在するのだろうか。

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