見出し画像

水曜日のひだまり vol.1

大学で助手…なんてことをしていた時が3年ほどある。父が倒れる数年前の年までだ。私が主についていた教授は『ビッグママ』と呼ばれる超厳しい人だった。身なりも話し方もビシッとしてた。だが、声質は田舎の叔母さん風だった。研究室にふたりになると、だらしない格好も見せた。きっとこちらの方が彼女の本当だろう…とか生意気に思っていた。どうやら、美術学科の方では皆がやり難さを感じていたようで、工芸学科から来た私のような者は彼女へとあてがわれた。
三時間の講義・実習の最初だけ少し話したら、実習させビデオを見せて自分は帰ってしまう。私が慣れてきたら、その最初の部分も私にさせて、具合が悪い…と休む始末だった。
三年経って辞める頃には、えらく気に入ってくれ、とてもやりやす人だったが、最初の一年は丁稚奉公にでも来たかのような日々だった。私が付く前の人たちは皆、契約の三年待たず、一年や二年で辞めていた。彼女の気性の激しさに耐えられなかったのだ。
私だって耐えられてはいなかった。彼女が帰ると一人、研究室でガッツポーズをしていたくらいだ。工芸に堅苦しさを感じて美術へ移り、助手をしながら作品を作るんだ…などという甘ーい考えは見事に崩れ落ちた。工芸より堅苦しい教授についたせいで、作品はひとつも作れなかった。自分の甘さが身に染みた。
それでも続けたのにはふたつの理由がある。
ひとつは、作品は作れないし、彼女が残念ながら尊敬に値しなくても、悔しいかな彼女がピックアップしてくる講義内容は私にとって興味深いモノばかりだった。作品を作れない時間で存分に吸収しようと必死だった気がする。そうやって割り切ってこなそうとしていたのだ。
そしてもうひとつは、もう一人の教授のお陰だ。正確には教授ではなく、非常勤講師だった。もう七十才を越えたおじいさんだった。毎週水曜日、その先生につく。それが私の楽しみだった。デッサンを教える先生だった。
初めて出会ったその時から、ずっと前から知っているような感覚だった。
七十才を越えたおじいさん…と書いたが、今思えば七十才なんてまだ若い。でも、先生は白髪で少し剥げた様だったし、年の割には老けていたのかもしれない。一方の私は、当時まだピチピチの二十代だ。七十才は確実におじいさんに見えた。私は昔っからおじいさんにモテたし、好きだった。昔の話を聴くのが好きなのだ。先生とも例外ではなかった。毎週水曜日、半日を共に過ごし、たくさんの話をした。
その内、展覧会のオープニングセレモニーに招待されたら二人で赴き、晩御飯をご馳走になったりもした。
そしてその内、先生行きつけのバーへも連れて行ってもらい、先生の友人と出会ったりもした。
あの窮屈な三年間、その後、私に待ち受けた大変な日々を考えれば、とても自由だった。そして、あの三年の間に先生と過ごした時間が、私の血と肉になっていることは間違いない。
先生は怒らなかった。いつも笑っていたし、ゆったりしていた。だけど、先生の描く絵は怒っているようだった。激しくではない。静かに静かに怒っていた。真っ青の世界の中で怒っていた。
「僕は、生きるために描いているんだ。」
そう言って笑ったその目は鋭かった。
先生は、戦争中に空襲をうけた神戸駅が忘れられないとつぶやいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?