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さようなら、の前に。

今日、いつもはあまり観ないジャンルの映画を観てしまった。
病気なんかで余命宣告された人が登場人物に出てくる邦画。
そういうの、好きじゃない。

どちらに視点で観ればいいのかすら、わからない。

遺される側なのか、遺す側なのか…。
もちろん映画の中では遺された側の世界を描くほうが圧倒的に多いし、その逆はファンタジー映画としてコミカルに描かれる比率が多くなるだろう。

自分の死生観は思っているより単純ではなさそうだ。
「死んだら悲しい」「死ぬのが怖い」という俗世の感覚はもちろん持っているけれど、まわりが死を直面して泣いている時、自分は泣かない。泣けない。どういうわけか「お前は泣いてはいけない」と感じる。共感して泣けばいいのに。なぜか泣かずにその泣いている皆を介抱することのほうが多い。これを役回りと言うべきなのか、迷う。

だけれども、実際に役回りなのだと思う。それは自分が遺される側よりも遺す側になる可能性が高いと考えているからだろうか。

昔からそうだった。何においても最後が好きだった。別にヒロイックな意味ではなく、「最後の風景」を自分の目に焼き付けておきたいのだ。

学園祭の最終日、卒業式の体育館。そのどれもの最後の人になりたかった。全てが終わり、皆が「また会おう」と心のどこかで本当はもう会うことはないだろうと思いながらも口にするあの空間から、一人、また一人と消えてく中、僕はその最後の空間にいたい。音が消えて、ざわめきも無くなり、その最後の扉が閉まる瞬間を見つめていたのだ。
そういう気持ちになる理由が何なのか未だにわからない。だけれども、催事の最後に立ち会いたいという感覚が、幼少期からある。

であれば、「死」についても同様だ。有限である限り、その命の終結は順不同ながら確実に巡ってくる。自分か、友か他人か、家族か。年齢と死の相関関係は確率論で当然ながら加速度的に比例していくのは当然として、それでも、友人の死はどちらかが先にやってくるのは間違いない。

その死を僕たちは受け止めていく。

だけどそれは悲しいことではないと、信じている。

だからこそ、余命宣告を受けて前向きに生きながら最終的には消えていく人の話は嫌いだ。悲しいから、嫌いだ。
遺される側の美化する感じも嫌いだ。遺す側の前向きすぎる姿勢も嫌いだ。本当はつらくて、きつくて、不安で、涙が止まらなくて、それなのに延々と泣くことができなくて、人はその悲しみと恐怖にすら慣れてしまうんだ。そのときに見せる笑顔は、やっぱり辛い。

遺される側が、一生懸命に生き抜いて死んでいった恋人や仲間、家族を想う姿は美しいけど、僕はそこまで美しさを死に求めない。もっと辛くてキツくて厳しいものだと思っている。

だからこそ、映画を観て思った。
美しく前向きに死ねたらいいな、と。
やはり人生は有限であったほうがいい。有限であるからこそその終わりに向けて人は進める。

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