なぜ「鬼滅の刃」は人気なのか (2)


 だいぶ間があいてしまいましたが、前回の続きです。「鬼滅の刃」ブームについて、あれこれ考えたことを少しずつ書いてみます。

 大正時代は今より「働かざる者食うべからず」的な雰囲気が強かったかもしれませんが、登場人物の心性は現代人に準じると想定して分析しています。

 「鬼滅の刃」の那田蜘蛛山編では、群れないといわれる鬼たちが5人家族として暮らしています。累は下弦の五という称号を持つ強い鬼ですが、自分ほどは強くない4人の鬼に父、母、兄、姉の役をやらせ、末っ子の座に収まっています。自分たちを「仲間のような薄っぺらなものではなく家族」と言い、絆の強さを誇示しますが、姉役の鬼は「何がしたいの?」「寄せ集めの家族」「ままごと」と痛いところを突いてくるし、母親役の鬼は重荷から解放されたがっているし、父は何を考えているか不明。彼らの結束は弱く、累の独り相撲です。炭治郎にも「偽物の絆」と言われてしまいます。

 累は「家族は役割を果たすべき」という考え方で、「役割」「能力」を重視し、それができない場合に暴力をふるうなど、罰を与えていました。でも、会社組織のように有償労働で昇進などの報酬がない組織のなかで、見返りなしに恐怖で縛ろうとするのは至難の業。鬼には定年もなくエンドレスだし、累以外の鬼は出世できそうにないし。彼らが家族として結束できなかったのは、何もできなくても存在するだけで許されるはずの場所に業績主義や評価システムを持ち込んだためといえます。

 ちなみに世論調査で子どもを持つ理由のトップは「子どもがいると生活が楽しく豊かになるから」(第15回出生動向基本調査)。今の親(およびその予備軍)は、子どもに何かしてもらおうと期待はしていなくて(「老後の支えになる」等の理由は少数派)、基本的には「存在するだけで幸せ♡」なのですよ。

 炭治郎は禰豆子を背負っていると闘いにくく、危険にさらすことはわかっていながらも、いつも一緒にいることを選びました。妹の能力に期待し、何かしてもらおうと考えたわけではなく、心の支えを求めたと思われます(結果的には禰豆子の能力が上がり、戦力になりますが)。しかし、累は身を挺して兄のピンチを救う禰豆子の姿を見て「本物の絆」「心が震えた」と羨ましがり、「妹をちょうだい」と要求します。口では「家族」「絆」などと言いながらも、累が求めているのは情緒的なつながりではなく、戦闘能力の高いパートナーのようです。このあたりが整理できていないのは、鬼になった後も人間だった頃の精神年齢を引きずる設定のためでしょう。

 多くの鬼が、最後の場面で人間だった頃を思い出し、無防備で無邪気な子どもに戻ります。鬼にならざるを得なかった弱さや悲しさが描かれたり、罪を許し無償の愛を注いでくれる家族と再会するなど、読む側もほわほわさせられますね。

 この回で興味深かったのは、炭治郎の「家族の絆は血縁ではない。信頼関係だ」という台詞です。大正時代を舞台にしながらも、現代の家族の多様化や定義の難しさをふまえ、非血縁者が家族になろうとする行為を否定しない点に、さまざまな背景を持つ読者を想像し、誰も傷つけまいとする作者の思いが現れている気がします。

(その3につづく)

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