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その性体験に「同意」はあるか

ここ数年、小説など文学的なものや情緒的なものを読めなくなっていたし、ドラマやアニメを観ることもつらくなっていた。なにかが私をそれらから遠ざけている、私の中に拒絶反応があると感じてきた。

今日、「この世界の片隅に」のドラマ(初回)を観た。


「この世界の片隅に」

夫がチャンネルを切り替えた瞬間にそれだとわかって、正直テレビを消してしまいたかった。けれど、アニメ映画もすばらしかったし、あの物語をどう実写ドラマ化するのかも気になる。なによりも、自分がどうして「観たくないのか」を知りたくて、いたたまれない思いで観続けていた。

結婚の話が進むにつれ、いたたまれなさは増してくる。

周作の家で式が終わり、二人は他人行儀なまま、すずの家族は帰っていく。ドラマの中で夕刻が迫るにつれ、私の体には力がこもって増してくる。

「風呂に入りなさい」と周作が言って、すずは素直に風呂場へ向かう。見知らぬ家の風呂場なんて、どれほど身の置き場がないことか。逃げて帰らないすずをすごいと思う。

風呂場で、おそらく祖母に聞かされた「傘」の話を思い出すすずに、この時代の性教育の一大山場を見る。この時代の娘は、具体的なことを何も知らされないまま嫁いだのだろうか。だとすると、迫りくる「なにか」の予感をどう受け止めてどう乗り越えたのか、想像を絶する。

高校生の時に読んだ「人形の家」を思い出す。ノラに初夜のことを、セックスのことをどう話せばよいのか、うろたえるノラの母。説明を押し付けられた父親が言う「いいかい、黙って旦那さんに身を任せるんだ。ただそれだけだよ」

そして、ノラはその夜、夫にそのとおりに答え、身を任せ、その実際に打ちのめされた。

そしてすず。風呂上り。聞かれて持参した傘を渡し、予想もできない予想を外れ、干し柿を頬張るすずにほっとするもつかの間、周作が胸の内を語る。そしてキス。

すずはキスという行為を知っていただろうか。これはさすがに目にしたことがあるかもしれない。

おそらく周作の強い思いに胸打たれ、キスに応えたすず。でも、そこから自分の体丸ごと任せる気には、そうすぐになれるものだろうか。私ならキスが深くなる前に腕を突っ張る。防御だ。絶対無理。

画面暗転。

長いため息をついた自分に驚く。体中に力ががちがちに入っていたことに気づく。そうか、私は緊張していたのか。

ここで私は気づいた。

ここ数年、小説もドラマもアニメすら受け入れにくかったのは、緊張していたんだ。それも怒りに近いほどに強烈な緊張。そして緊張の理由は、描かれる「性体験」だったんだ。

そして、性体験がどう描かれれば私は受け入れられるのか?がはっきり見えた。

「同意」だ。

その性体験に「同意」はあるか。

その性体験に「同意」はあるか

手を握る、キスをする、体に触れる、セックスをする。

性体験のどの段階においても、「同意」は必須だ。同意のもとにない接触は、いかなるものもあってはならない。これは、双方が傷つかないためでもあり、双方が具体的な危険から身を守るためでもある。

性体験は近距離過ぎるがために、体や、もっと言えば命の危険が伴う。少なくとも人類の歴史では、女性の身体的犠牲が死屍累々とあったはず。そうでなければ、本屋の棚の陰で、お尻をひと撫でされただけで、あれほどの恐怖を感じる説明がつかない(私の実体験)。

人類の女性は、その犠牲を踏み越えて今にいる。だから、「同意のない」身体的接触にこれほどまで恐怖を感じる。「限りなく本能に近いレベルまで引き上げられた文化(知恵)」が、女性の身をかろうじて決定的な危険から守っている。

私が知りたいこと

私は時代をさかのぼって、現代人としての経験や知識をさもえらそうに述べたいのではない。ただ、知りたいのだ。その、それぞれの時代の女性がしあわせだったのか。どうやってしあわせを築いたのか、を。

中学生の時、源氏物語にはまっていた。原本は早々に諦めたけれど、国語便覧の登場人物関係図は暗記し、例えば瀬戸内寂聴さんの「女人源氏物語」を読破した。それ以外にも「〇〇源氏物語」があれば読み漁り、コミックの「あさきゆめみし」も夢中で読んだ。

しかし、年を重ねるにつれ違和感が増してくる。あの姫が嫁いだのは9歳、出産したのはその2年後、11歳!まさか!何よりも違和感だったのは、若紫。さらわれて、父親同然、兄同然に慕っていた源氏を、どうやって恋人、夫へと思いの中身を切り替えたのだろう。

どの本だったか忘れたが、「平安時代の男女の愛はレイプから始まったんですよ」という言葉に理解した。理解はしたが、腑には落ちない。「レイプから始まる愛」なんてあるはずがない。

でも、あったのだ。「同意のないセックス」から始まる愛は。

考えてもみたい。政略結婚が一般的だった戦国時代に、夫と一蓮托生、強いきずなを結んで難局を乗り切った妻の話は結構ある。

「同意のない結婚」には「同意のないセックス」があっただろう。しかし、そんなところからも、人類は相手を大切に思う思いを生じさせ、強いきずなを育んでいったのだ。「レイプから始まる愛」もあっただろうことは理解できる(レイプ神話を肯定しているわけでは決してない)。

「同意のないセックスから始まる愛」と「同意のあるセックスで育む愛」。どちらか「よりよい愛」だろうか。どちらが「よりよい性体験」だろうか。

私は知りたい、それぞれの時代の女性が(ほんとうは女性と限定せず「人間が」と言いたいのだけど)、セックスというものを
・どうやって知り(どういう風に知り)
・どうやって受け止め(どのように受け止め)
・どうやって受け入れ
・どうやって相手を大切に思う思いにつなげていったのか

を。

これらのどの段階にどのような「同意」が存在したのかを。

そして、これらを知って、今に至る歴史の中で人類が築いてきた「よりよい性体験の築き方」として、子どもたちになにを伝えられるのかを考えたい。

ひとつだけ確かなこと。その方法として、「同意」は必須

私はおとなとして自分の性体験を振り返る時、あの時、「結果としての同意」はあった、と思い出す。「結果としての同意」でしかなく、その時その場で、言葉にして確かな意志表示をお互いにできていなかった。今ここにある私は、かろうじて危機に陥らなかっただけに過ぎない。

その性体験に「同意」はあったか。なかった、と言わざるを得ない。

子どもたちに伝えなくてはならないこと、まずひとつ目はこれ。

「その性体験に「同意」はあるか」ひとつずつ確かめて、お互いの安全を確認して進むんだよ。と。

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