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一貫性なんていらない「いろんな自分」で生きていく

子どもの頃、友だちとわいわい遊んでいる時に、親が迎えに来るなどして顔を出すと、なぜかものすごく恥ずかしかったことを思い出す。

でも、決して親が悪かったわけでも、友だちと悪ふざけをしていたわけでもない。ただ、「恥ずかしかった」

中学生になると、休日の家族との買い物で、店内で学校の友だちとばったり出会うと、私は硬直するようになっていた。なぜかわからない。いたたまれなくてこわばって、顔だけ真っ赤になって、なにも言えなくなる。

不意打ちでとても恥ずかしい一発芸でもやらされている気分になるのだ。

すっかり忘れていたこのことを、最近娘がとても分かりやすい言葉で表現した。小学校も後半の娘はこう言ったのだ。

「学校テンションと習い事テンションがあってね。あー、家テンションもあるなあ」って。

彼女いわく、「学校にいる私と、習い事にいる私、習い事でもあっちの習い事とこっちの習い事でもまた違う私で、家にいる私もまた違うんだ」

これを聞いて、私は自分の子ども時代の恥ずかしさが理解できた。

やっと理解できた嬉しさで、私は娘にまくし立てた。「で、学校帰りに学校テンションでいるところに、私が迎えに来るとやりづらいんでしょ?習い事の友だちといる時に、学校の友だちに会うと変な感じなんでしょ?」

「そうそう!」と娘は跳ねた。「かっかちゃん、よくわかるね!」

子育ては追体験だ。

と書いたのは吉本ばななさんだったはず。

この一文を子育ての折々に思い出す。例えば、私自身の小さな後悔と似たような思いを、子どもたちも抱いている時。私が「つらかったなあ」と思い出すことと、似たような状況に子どもたちがある時。

そして、そんな子どもたちに、当時私が誰かにしてもらいたかったことを試してみて、子どもたちが晴れやかな顔に戻った時。

子どもの頃の私が、私の子どもたちと一緒に笑うのだ。

さて、「別々の自分」の話を娘としたあと、私が気を付けていることがある。

「家テンション」の代表である自分は、習い事テンションや学校テンションの娘と距離を取ること。お迎えならば近くに待ち合わせ場所を決めて、友だちと別れたあと、そこで合流する。

ほんの少しの距離だけれど、習い事テンション(あるいは学校テンション)から、家テンションへの切り替え時間を取ったのだ。数10メートルを歩く間に、「家のあなた」に自力で戻っておいで、と。

娘には娘の世界があって、そこに私が頭を突っ込んで、楽しく過ごしている娘にちぐはぐな思いをさせるなんて失礼だ。いろんな世界があって、いろんな自分がいて、それぞれ別々の自分でいられるなんて、すてきなことではないか。

同時に、私は子どもの頃の自分の必死さにも気づいた。「自分はひとりであって、いつも同じ自分でいなくちゃいけない」と思っていた自分に気づいた。「一貫性」を守りたくて、でも守れなくて、どうすればいいのかわからなくて、パニックを起こして硬直していた私。

「一貫性」なんていらない。と今なら言える。そんなものよりも、「いろんな自分」をいろんな世界でそれぞれに楽しむ方が何倍も楽しい。何倍も有意義だ。

どんなにいっぱい「いろんな自分」がいたって、「自分」は結局ひとりなのだ。一貫性なんて、それだけで充分だ。

いろんな自分をいろんな世界で楽しんで、ほがらかに疲れて帰ってくる娘。ちぐはぐしたり、恥ずかしくなったり、顔を真っ赤にしたりしないで、穏やかに「家の娘」に収束する。

子どもの頃、スーパーの中で真っ赤になっていたたまれなくなっていた私がほっとした顔をしている。そんな子どもの私の背中を、私はとんとんと叩いた。

子育ては追体験だ。


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