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映画「マディソン郡の橋」

1995年の映画「マディソン郡の橋」を先日見ました。25年くらい前に一度見た映画です。感動するとか、泣くとか、胸がキューンとするとか、とても評判がよかった映画ですが、当時の私は、特に心に響くものがなく・・・。その頃20代だった私は、まだまだ人生経験も浅く、理解できないのかなーーーと思っていました。50才代になった今なら、前とは違った印象があって、映画の良さがわかるかもしれない・・・と、見てみたのです。

見た結果・・・やっぱり面白くなかった。確かに叶わぬ恋って哀しいけれど、何十年も思い続けているというのは私には共感できず。私に情緒がないのか、さっぱりしすぎてるのか分かりませんが。


メリル・ストリープのセリフにドキッ

とはいえ・・・映画の中で、メリル・ストリープが演じるフランチェスカの言葉にドキッとしたものがあります。

アイオワのど田舎で、農夫の妻をしているフランチェスカが、自分の暮らしについて話しているとき・・・

「そうね、ここは・・・静かだわ」
「人もいい人たちよ・・・」
「とにかく、静かなの」

「・・・でも、私が少女だった頃に思い描いていた夢とは違うわ・・・」


なんてことないセリフですが「少女の頃に思い描いていた夢」というキーワードでドキッとしました。私は、少女の頃に思い描いていた夢なんてあっただろうか!?・・・と。


私の子どもの頃に思い描いていた夢

私は9才から教師になると決めていたのです。だから、憧れとか夢とか、「教師になる」という限定で考えていました。

小さな頃から私は西洋に憧れていました。日本と私の繋がりは希薄に感じます。魅力を感じるものはたいてい西洋のもの。読む本も、聞く音楽も、洋モノばかり。いいなーと思う景色も欧米、特にヨーロッパの景色。

だから、「外国に住む」ことには憧れていました。でも、「教師になるんだから、私は一生日本にいるんだ」と思って、外国に住むことは「ありえない」と決めつけていました。

そして、結婚も国際結婚が憧れだったけど、「教師の狭い世界で暮らしていくから、外国人と出会うことなんてないから無理」と、決めつけていました。

「教師になる」というのは、夢ではなく、決意でした。しかも私のイメージの「教師」は、私が日頃見ている学校の先生たち。日本で、子どもたちを相手にして定年退職まで一生教師をする人たち。外国で教師をするとか想像もつかない。それ以前に、自分が行っている学校以外の教育も知らないし、いろんな生き方をしている先生がいるということも知らない、子どもの小さな世界での考えです。

だから、外国に住むことや、国際結婚は憧れだったけれど、夢を思い描く以前のところで、否定しました。ふと浮かぶ「こんなのいいな」という軽い羨望も、「教師の人生」に合わなければ即刻却下です。

だから、私に、「少女の頃に思い描いた夢」なんてあったんだろうか?・・・と、メリル・ストリープの言葉にドキッとしてしまいました。

子どものころに持った憧れや 憧憬、望みは、実は人生の大事な鍵になると感じています。その人生に成し遂げること、天命とか使命とか、生き方とか・・・大事な運命がそこに現れているように感じます。

私は、結局、教師にもなり、外国にも住み、国際結婚もしました。否定した割には願いが叶っているところが、人生の不思議です。

私は私の思いを否定したにもかかわらず、結果的に願いが叶った。でも、否定したまま、そんな願いがあったことさえも忘れて、そのまま一生を終えてしまう人だって多いでしょう。否定せずに、それを追い求めていたら叶った夢も多いはずなのに・・・。

だから、子どもたちに、自分を否定することや、決めつけることをできるだけしてほしくない。そのことに大事なのは、自己肯定感だと思うのです。自分を肯定できなければ、自分の可能性も肯定できない。自分を肯定できる人は、他者のことも肯定できるし、世界を肯定することもできる。

自己肯定感なんてかけらもなく育った私ですが、今では自己肯定感が備わっていると思います。自分を大事にしています。ずっと学び続けているシュタイナー教育、ルドルフシュタイナーの人智学によって、育てられたモノ。

大人になってからでも自己肯定感は育てられる。育てて欲しいな。大人も子供も。




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