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昭和18年の中学生③

昭和五年生まれの父が同級生達と作った文集から


 『K氏 激動の時代に』

 昭和という激動の時代を生きてきた我々が今、回顧談として21世紀に語り継がねばならぬと思うのですが、何せ半世紀も前のことゆえ、記憶をよみがえらすことが出来ないというのが現実です。しかしながら21世紀に生きる者へ贈るメッセージとして今語り継がねば永遠に忘れ去られてしまう。それならばと断片的にでも残そうと書くことに致しました。

 思えば昭和18年4月六辻小学校のおんぼろ借り校舎に110名が相集い、たった4人の先生のもと勉学を開始したのでした。確か面接試験は浦中(現浦高)でした。当時は体力テストが厳しく鉄棒が不得意の者は、学力があっても浦中は不合格でした。したがって競争率がきびしく、狭き門だったと記憶しています。
 あの当時浦和付近で普通科の中学といえば浦中、川口中、例外で埼中だけでした。その中新しく浦和市立中学校が誕生したわけです。〔父達は一期生です〕
 服装と言えば麻袋のようなカーキ色の上着、その上から太いバンドを締め(川口中のまね)ズボンにゲートルをまき、ボール紙で出来た校章をつけた戦闘帽をかぶり、颯爽と歩いていました。
 まだ12歳という私たちでしたが、生徒全体の気持ちとしては”浦中に負けるな”という強い気持ちでスタートしたように思います。したがって先生方の勉学に対する意気込みも厳しく、中間試験、期末試験の結果がその都度廊下の壁に張り出され、教室の席順も後ろから成績の良い順に並ばされたのでした。成績の悪い者は居残り補習させられた記憶があります。
 校舎が寒くても暖房などあるはずがなく、寒いときには日当たりを求めて校舎の壁にへばりつき、先生ともども暖を取ったことを思い出します。それでも少しもひるむことなく毎日元気に頑張ってまいりました。

 それから戦争のために若い労働力のない農家を助けるため農作業で勤労奉仕をしました。三室、大久保、大宮の指扇へと奉仕に行きました。慣れぬ鎌で指先を切り、また田んぼに入り蛭に吸い付かれるなどつらい農作業でした。それでも昼時に農家の方が出してくれたサツマイモの美味しかったこと、何もない時代の私たちには何よりのご馳走でした。

〔富士山麓の軍事訓練と川口の工場への勤労奉仕の話は他の方と重なるためカット致します。〕

 終戦となり日本が負けましたので、われわれは学校へ帰ってきました。
戦後すぐは教科書もなく、のちに配布されたものはタブロイド判で切断されてなく、自分で製本したような気がします。当時は参考書などあろうはずもなく、古本屋に通いました。時には御茶の水駅から神田神保町の古本屋街へ行き探し求めたものでした。
 仮校舎も手狭になり、新しい校舎に移ることが必要になり与野の上木崎にありました、カポック工場に決まったのでした。
 今思うとよくぞ校舎として使ったものだと思います。それでも全学年がそろって勉強が出来る場所がやっと出来上がったのです。しかし運動場も松林の中に形ばかりのものでした。それでもやっと見つかった校舎で勉強できる学校生活に満足感があったように思います。そして四年生、五年生とみんな必死になって勉強いたしました。
 そして五年にて旧制中学を大多数の者が卒業いたしました。大学受験の結果は”浦中に負けるな”という気持ちで猛勉強の結果、東大を始め有名大学にほとんどの者が合格致しました。
 最後の六年目、いわゆる新制高校の一期生(二十数人)が卒業いたしました。私もその一人でしたが、家業に就く者以外は全員大学に合格いたしました。苦しいことを苦とも思わず自分たちの持っている力を十分に発揮した現れだと思います。


 
 この時代の12歳の子がとても大人っぽくしっかりしていたことがわかりますね。父が厳しかった理由もわかってきました。


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