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わたしの中の「私」と

「自分で自分を助けにいこう」

と、
youtuberが言っている。

どうも、書籍の紹介らしい。

そうだよな〜。
と、つい過去の出来事が思いおこされる。

35歳の時、私は起き上がれなくなった。
それまでやっとやっとで繋いでいた糸が切れてしまったように、
なんにもできなくなってしまった。

電池切れだな。

自分で自分をそう思った。

騙し騙し生きてきたけど、もう限界きたんだな。
と。

そのころをきっかけに、私の人生は大きく変わった。
そして、
私は自分で自分を助けるようになったし、
私の中の”守り主”と手を結ぶことができた気がしている。

子供の頃から、いつも神様は見ていると私は思っていた。
幼稚園がミッション系だったこともあり、
自然と日曜日の朝は教会に行くようになった。

小学生になった私はイエスに憧れていた。

「イエス様、今日もありがとうございます。」

と、2段ベッドの前に跪き、
手を組み、祈る姿はまるで外国映画のワンシーンのよう。
幼い5、6歳の私がそれをしているのが目に浮かぶ。
なんとも可愛らしい。

その頃テレビで観ていた「大草原の小さな家」さながらに、神様に祈っていた。
主人公ローラを真似ていたのだと思う。
(私は「大草原の小さな家」現象というものを発見しているのだが、これについてはまた改めて書きたい)

小学校を卒業するまでは日曜日の朝は教会だったし、
(高学年にはもう毎週行くことはなかったけど)
学生じゃなくなっても、成人しても、
ずっと、なにかあるたびに「神様、助けてください」と両手を組み心の中でお願いしているというのが普通だった。

ある日、つい「ばれなくても神様は見てるよ」と声に出して言ってしまい、(もう成人していた)
気持ちわる!神様おんなか!と言われたこともあった。


そんな私だから、
起き上がれないなんてこの大惨事にも当然神に救いを求めるはず。
なのに、この時ばかりは神にお願いするのではなく、

「神様はなぜ私をこんな目にあわすの?」

どちらかというと裏切られた感満載だった。
神様にまで見捨てられた感。

真っ暗闇の中で、
全く光が見えなくて、
「それでも絶対に一筋の光はあるはずだ。」と、
その見えない光を信じようと這いつくばっていた感じ。

そうやって、
本当に僅かな、見え隠れするほっそーい、光を頼りに生き延びた。


今思えば、
それは、光がない世界ではなく、私が目をつぶっていただけなのだが。

現実を見るのが怖すぎて、
見てしまったら生きていけないと、私の中の守り主が目をつぶってしまったのかもしれない。

目をつぶったまま光を探している様は、今思えば滑稽だが、
あの頃の私はそうするしかなかったのもわかる。

当時、
自分で自分を守るらなければ。
と、強く思った。

このままでは、私は母に殺されてしまう。とも。

母を知る人にこう言えば、
なんの冗談だと言われるだろうし、信じてはもらえないだろう。

明るくて、優しくて、いつも人のことを思いやり、皆から愛されている人だから。(姉妹間では”詐欺師”と命名されているが)

相当苦労したが、
少しずつ、自分で自分を守れるようになって、
今度は、「私の中の取り残された私」に手を差し伸べられるようになった。

傷ついている私はなにも反応してくれず、最初はどう扱っていいのかわからずとても困ってしまったが。

心理療法を学んだり、代替医療やボディーワークを習ったり、たくさんのワークやメソッドを学んでみたものの、
それでも、魔法はなくて、
これをやったら完璧!スッキリ!問題なし!という状態にはならない。


たくさんのメソッドはサポートにはなっても、完全に私を救ってくれることはなく、ただただ、日々私と向き合っていくことでしかないんだなと
なんとなく思った。

私の中にいる痛みにやられて動けなくなっている小さな私に声をかけると、
決まって彼女は体育座りをしていて、膝を両手で抱えておでこを両腕につけている。
顔は見えないけれど、
子供だったり、大人だったりするのはわかる。

うずくまって、ただただ小さくなって我慢をしている私。
そんな私が私の中にいる。

そんな時は決まって、ただ泣く。
ただ泣いて、それしかできない。

泣くことしかできない私と、体育座りの私とただ一緒にいる。


ずっとそんなことをやっていたら、いつの間にか生きるのが楽になっていた。

今でもたまに、私の中の取り残された私に気づくことがある。

大人だから傷つかないわけではないし、
日々の小さな出来事が、昔の痛みを呼び起こしたりもする。

そんなとき、体育座りの私に気づく。

今では、
「あ、いたんだね。」と軽く向き合えるようになったが、
以前はこの体育座りの私のそばにいて痛みを感じないことはなかった。
猛烈に痛かった。
早く解決したい。早く楽になってよ。そしたら痛くなくなるから。
そう思っていた。

この痛みが消えてなくなることを望んでいて、
それが完全に癒されたということだろうとも思っていた。

でも今は、
体育座りの私はいなくならなくていいのだと思っている。
この私と一緒に生きていて、「私」なのだろう。

この儚く、今にも消えてしまいそうな私を
わたしはこれからもずっと癒し続けるのだろう。


最初に「神様」に助けを求めながら。

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