ジッタリンジン
つげ義春の「紅い花」が好きだ。思春期の入り口っぽい子どもたちの、いや子どもと大人の間の人たちの微妙な触れ合いが詩的に描かれている。美しいのだ。この本は昔知人から貰ったもので、私の感性に多大なる影響を与えていると言うと過言かもしれないが、まあ多少なりとも美的センスや話の組み立て方に影響を受けているかもしれない。よく考えたらこの本をくれた友人はこのnoteも読んでくれていて課金までしているので、もしかしたら自分の娯楽を充実させるためにこの本を私に投資してくれたのかもしれないと思うと空恐ろしい。さすがにそこまで考えていないと思いたい。
プレゼントは大好きである。まず、生活が豊かになる。恐ろしく現世利益的で最悪だが、相手にプレゼントをする時もその観点を踏まえているので勘弁してほしい。やはり物質的な充実というのはありがたい。プレゼントについて考えるにあたっていの一番に唯物的な考えが出てきたことが嫌になったので、プレゼントが好きな詩的な理由も添えておかなければならないであろう。保身である。
ここでは、手紙も大好きであることを述べたい。友人と手紙を送り合ったり、交換日記をしたりするのは小さい頃から好きだった。文章と絵でコミュニケーションを取るのは、現実から離れた、理想的な世界のようでなんだかワクワクする。
手紙といえば、昔付き合っていた人にブチ切れたことがある。「手紙といえば」でこの文言が出てくるのも本当に嫌だが、事実なのだから仕方がない。気持ちが欲しかったのだ。良いように書くがかなり傲慢な行為であり、この場を借りて謝罪したい。大変申し訳ございませんでした。
贖罪はさておき、ここからは釈明をしたい。最初のうちは私が手紙を渡したから、それを返してほしいなぁと(自分なりに)可愛く催促してたのだ。きっと愛とは日常的に訥々と語るものではないから、世界はラブソングで溢れているのであろう。だがそれなりの技能がなければラブソングは作れない。脱線するが友人夫婦の結婚式にてサプライズでオリジナルソングが流れたことがあり様々な面で驚愕した。人徳と技能のなせる技である。
もちろん、私にも相手にもそんな技能はない。そこで手紙なのである。文字の読み書きができたら拙くとも書くことはできる。私は手紙なら書いてもらえるかなと思ってちょこちょこ催促してたのだが、何かの拍子で「全然かかんやん、なんやこいつ」と思い爆発したのである。当時の恋人は「これ、来週渡そうと思ってたんだけど…」と言われて泣きべそになりながら手紙を差し出してくれた。私の誕生日の1週間前のことであった。
ああ、書いていて自分が嫌になる。なぜこんなに乞食根性を拗らせてしまったのだろうか。決して先天的な性質ではないと信じたくて脳をフル回転させる。脳がコペルニクス的「回転」を経た後、思い出したのは私のきょうだいのことだった。
私には何人かきょうだいがおり、そのうちに私より年上の者もいる。そのうちの1人(ここでは便宜上1と呼ぶ)が、私にちょこちょこプレゼントをくれるのだ。受験勉強をしている時、1はチョコレートを買ってきてくれる。家に遊びに行く時、1はパンを買ってもてなしてくれる。一見優しく、きょうだい仲良さそうに見えるのだが、私を喜ばせるのが目的でないことは明らかだったので、毎度居心地が悪くなる。では、なぜそう思うのか。理由は1が私にくれたものにあった。
何年も前、私がまだ思春期に入るか入らないかの頃に1から誕生日プレゼントをくれた。当時流行っていたカラフルなマスコットで、おしゃれな1はプレゼントに採用したのだろう。ただ、残念ながら私はそのマスコットが好きではなかったのだ。もっと言ってしまえば、身につけたいと思わなかった。それを家族から貰ってしまったものだから、私は困ってしまった。家族から貰ったからと言って、いらないということはできない。かといって使ったり、使っているふりをするのは面倒である。しかも、家族なのでマスコットがどう扱われているかは毎日みることになってしまう。さらに悪いことに1は、「あなた、嬉しい?」と聞いてきたのである。
2つ3つ違いのきょうだいなら質問するのもまだわかるが、私と1には小学校を被らない以上の歳の差がある。仮に私の顔に「いらねーよ、こんなもん」というような表情が出ていたとしてもそっとしておくのが年上というものではないのか。そう思ったがそうでないのが1であったので、私はさらに困惑した。
「嬉しいよ、ありがとう」私は平然を装って嘘をついた。私は嘘がかなり苦手なので顔が引き攣っていたのか、1はさらに「本当に?本当に嬉しい?」と尋ねてきた。「大人気(おとなげ)」という言葉を辞書で引いてほしいと思った。
聡明な皆様はお分かりかもしれないが、結局のところ1は自分が素敵なプレゼントをした達成感に包まれたいだけなのだった。だから相手が嬉しくないといえば自分の達成感に泥を塗ることになる。相手が喜んでいるという確信が欲しかったのだった。つまり、1は相手にプレゼントを通じた喜びのリアクションを脅迫していたのだった。前述のプレゼント癖もその一端である。この類推は完全に私の性格の悪さがモロに出ているものだが、実際そうなのだから仕方がない。家族揃って性格が歪んでいるのである。愉快な家族だなぁ。
話を戻す。押し問答は10分程度続いた。1は、「本当に、本当に嬉しい?」と聞いてきた。私は油断した。「本当に、嬉しいかどうか聞きたいだけなのかもしれない。」そう思った私は意を決した。「ごめん、本当はこれ、好きじゃないんだよね」
「なんでよ!!!!!!!」1は音速でキレた。油断も隙もない。今回は隙を見せた私の負けというわけである。1は不機嫌を撒き散らしながら私の部屋から去っていった。マスコットをどうしたかは覚えていないが、この時のやり取りだけは鮮明に覚えている。
1が私にくれたものは、「プレゼントには相手が欲しいものをあげる」「相手のことを思わないプレゼントはありがた迷惑」という教訓だったかもしれない。