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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第82回 第67章 海路、室蘭西港を目指す

 3日間討論を続けた結果、金のなかった僕らは、黄金郷を目指したエンリケ航海王子の命令を受けたジル・エアネスではなかったが、練習も兼ねて沿岸沿いにヨットを操船して内浦湾に行くことに決めた。この北海道西側の半島部を反時計回りで囲む海路について大げさな例え方をすれば、艇庫の位置がオランダのハーグであり、積丹半島がベルギー、奥尻島がグレートブリテン島、この島と北海道本島との間の細長い水路がドーバー海峡、渡島半島の南半分がサブサハラ・アフリカ、江差が赤道ギニア、松前が喜望峰、恵山がモザンビーク、その対岸の下北半島がマダガスカル、南茅部がダル・エス・サラーム、鹿部がソマリアに相当し、その北東に広がる内浦湾開口部の海域を越えて最後に投錨する室蘭西港はインド洋に面したケララ州を想起させるだろう。
 夕方には漁港に入って一泊させてもらうのである。漁師は非常に冷淡な態度を取る人が多かったが、我々が医学部の学生と名乗ると、どこでも態度は一変した。ヨットの側面に大学名を日本語で明記しておいて大正解だったのである。小さな漁村には十分な医師がいない。そのことを考えて、今ヨットの1艘ぐらいたった一晩港に泊めてやって恩を売っておいても損はない、そう考えたのだろう。それどころか、数カ所で刺身接待攻勢まで受けた。まるで白米の丼飯のように大量に刺身を食べさせてもらった漁港があった。将来、深夜の往診に行かせてもらうかも知れませんね。お約束はできませんが。
 これは生命の危険を伴う海洋行であったが、振り返れば学生時代に思い切ってやっておいて本当に良かったと思う。あれは一生で一度のチャンスだった。卒業後に医師として仕事をするようになってしまえば、そのような時間は取れないし、体力だって落ちてしまっている。何よりもそこまで危険を犯すことは、家族や職場に対する重責から到底できないのである。
 硯海岸から小樽・祝津まで石狩湾を斜めに横切るのはいつもの航路だった。この沖では小樽商大と北大のヨット部が練習をしている。見かけた顔もいくつかあった。お互いに誰がどの程度酒が強いか弱いか知っているはずである。その他、余計な点まで知り合っているであろう。人付き合いの煩わしさよ。その後、さらに西に、そして北西に針路を取り、沿岸沿いに左手に回る航海を続けた。時に大雨になり体が冷え切った。陸上にいて全身があのような濡れ方をすることはあり得ない。海に逃げ場はないのである。積丹半島を沖からヨットで見るのは特権である。あの美しい青、何と形容すればいいのだろう。
「だーから、みんなShakotan Blueって言ってるっしょ」

第68章 岩内の寿司屋で豪華なディナー(前半) https://note.com/kayatan555/n/n221624caaa87 に続く。(全175章まであります)。

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