『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第83回 第68章 岩内の寿司屋で豪華なディナー (前半)
この半島の先端から左向きにUターンして南東に進んだ奥にある岩内では、航海中1回切りの贅沢として、寿司屋に入ることにしていた。その入港見込日を命日と称して心待ちにしていた。飲食代金が足りなくなる場合に備えて、店主を麻酔で眠らせ、さらにボクらの入店から退却数分後までの記憶を消滅させる準備をしてから出港していた。目視でその体重を推定して、ボクらが港を離れた後に目覚め、不審な点がない自然な形で通常の営業に復帰するように麻酔薬と忘却剤を配合し、それらの分量の計算をしておくのがボクが仰せつかった役割だった(辞令 麻酔等処理班ヲ命ス)。いずれかの効き目が不十分なら店の裏で殴られて数日間ただ働きをさせられ、効き過ぎれば別の緊急対応を迫られただろう。これじゃオレたちってまるで海賊じゃん。
事前に部室で寿司屋攻略作戦を練ってみたところ、A、B、2つの案が出た。手順を理解しやすくするために、学内の演劇部の部員たちに来てもらって、実際にそれぞれの方法を演じてみてもらいながらである。この日のヨット部部室は束の間の演劇空間になっていた。時々爆笑が起こった。見ていると、東京に住んでいたころに行ったあちこちの芝居小屋を思い出した。演劇って何だろうか。オレのこの人生自体もひとつの演劇ではないのか。だったら、端役や不利な脇役じゃなくてセンターの主役を張らせてくれ。その日の例会が終わるときに、協力してくれた学生役者たちに謝礼としてビール券を渡したところ、そのうちの一人が、偶然ネットで見つけた、昔NHKでやっていた「ジェスチャー」を真似てやってみました、と説明した。柳家金語楼、水の江瀧子が白黒の画面で対戦していた人気番組である。「それは置いといて」話を続けるが、白黒と言ったが、テレビカメラはそのころの色彩をそのまま機械的に映像記録化してはいたが、ひょっとすると時代それ自体が白と黒、フランス語で逆の順番にしてみるとnoir et blanc(ノワール、エ、ブラン)だったのかも知れない。
2つの案とは次のようなものだった。
A案: 2人の部員が店主を後ろから羽交い締めにして(「あにするだー」)、3人目がガーゼに麻酔薬を染み込ませて店主の鼻と口をきつく塞ぐことにする(自分の鼻に近付けていったらアホ。隣に座っている仲間を眠らせてもまずかっただろう)。
B案: ボクらのうちの1人が立ち上がって財布を出す素振りを見せながら片手で虚空を指差し、「あっち向いてほいっ」と言って店主の注意をそらした瞬間に指名打者が後ろに回り込んで、そのケッツ(まあ、またまたお下品な)に、心の中で「死んでもらいます」と言いながら、容赦なく注射針をぶっ刺して(「あへ」)麻酔をかけることにする。
記憶を奪う方法は両方に共通していた。眠らせてから鼻の粘膜に無臭の速乾性粘液を塗布するのである。
このAにするかBにするかで意見が分かれた。To B, or not to B, that is the question. こんなディスカッションをするなんて、オレら、いったい何をしに医学部に入っていたのか。
第68章 岩内の寿司屋で豪華なディナー(後半) https://note.com/kayatan555/n/n37111acf057d に続く。(全175章まであります)。
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