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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第167回 第133章 夜の海辺

 こうして、第1日目の夜は娘さんを尊重して清らかに進行して行った。面子が少しずつ建物の中に入って行き、そのうち旧校舎の中の灯りも消えた(電気料金未払いで)。医者は慢性的に疲れ切っているのだ。しかも、今日はそれぞれ暗い中自宅を出発してこの浜まで緊張して車を運転してきて、挙げ句の果てに、普段はすることのない肉体労働をして酒も中ぐらい入ったのだから、就眠の条件は全部揃っていた。波の音を聞いているうちにあっさりと眠りに就いてしまったのだろう。
 結局私ひとりが海岸に残されてしまった。でも、校舎の中に何人も仲間がいると知っているためまったく恐くない。暗くなった浜で、私は家庭生活と独身生活の中間地帯にいるかの雰囲気で時間を過ごしていった。「長い19世紀」ではないが、夏の昼間、普通話(北京語)で言えば「白天」は暗い時分にすでに始まり、暗くなってもまだ続いている。人間が起きている間は「昼間」であり、暗くても、目を開けばアサー。
 ヘッドライトを照らし続けて明かりの輪を作っておいてもいいが、それではバッテリーが上がってしまうし、野趣にも欠ける。そこで、まったくの闇の中で手探りとうろ覚えの記憶でアメリカ製のランタンにケロシンを入れて明かりを取ろうとする。
 ところが、一つ目のライターは一瞬光っただけで火は灯せなかった。ガス欠である。慌てて山羊革のバミューダパンツの右ポケットに手を入れると、穴が空いていてもうひとつのライターはそこにはなかった。特に感興もなく左ポケットを探ると今度はあった。朴歯の下駄の形で、横に貫一と彫ってあり、二つに割ると中央から自動的に火が出るのである。小さすぎるので指先を火傷しそうで、何でこんな変なデザインにしたのか分からない。表面が酸化して黒っぽくなっている。前の前の彼女からもらった代物で、表面にMemento mori, carpe diemと刻んである(練習問題 このラテン語の意味を調べてみましょう。余力のある方は、ドイツ語、フランス語などへの訳文例も探してみましょう)。彼女自身がどこかで買ったのならいいが、ひょっとすると誰か他の男からもらったライターを私に侮辱を込めて「お下がり」として寄越したのかも知れない。そんなことに思いが至ったことは一度もなかったのに(オレって鈍感かぁー?)、やはり街を離れて海辺にいて、さらにアルコールが入っていると、脳が瞬間的に暴発するように異常に速く働くことがある。そうしたアイディアを書き取るのに40分以上もかかることさえある。
 その昔のカノジョの顔を思い出しながら火をつけた。結局別れるしかない相手だったのだろう。私とて決して人のことは言えないが、偏頗な学力の持ち主だった。誰だって勉強している有機化学さえしっかり勉強しないで高校を出ちゃいけませんよ。テニスとフランス語は相当うまいのにバランスが取れていないのである。日本の高校は在校生を全員卒業させてしまうが、1科目でも要求水準に達していない生徒は落第させて、しっかりと学力をつけさせなければならない。その生徒はその時は辛いだろうが、一生を展望すれば、その時点で勉強がしっかりできて本人のためになる。
 今度はうまく行った。グラスウールの網が白っぽくまばゆく光る。小さな灯台が生まれる。ただし光が回転しない灯台である。酒を飲みすぎると、炎や仲間たちの顔が回転して見える。夜空がだるま落としで2段階分地上に近づいている感じがする。息をのむほど夥しい数の星々が頭上の天空全体を占めている。どの方向を見回しても小さな点が瞬いている。星ってこんなにたくさんあったのだろうか。
 原始人の恐怖と戦慄を覚える。もちろん想像だけど。漆黒の闇の奥から、得体の知れない巨大な生物が宣戦布告もなしにいきなり人間の致命傷になる攻撃を仕掛けて襲ってくる気がする。生きたまま喰われるというのはどんな怖さ、痛さ、苦しさ、やるせなさなのだろうか。誰にも想像はできない。

第134章 月の光に照らされて https://note.com/kayatan555/n/n328f71a2a08a に続く。(全175章まであります)。

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