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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第168回 第134章 月の光に照らされて

 日中の最高気温が27度にもなっていたため、暗くなっても風はまだ生ぬるかった。そのうち、私はその日は例外的に小学生レディーがすぐ目の前の建物の中にいることを不注意にも忘れてしまい、時々元部員たちがふざけてそうしていたようにまっぱ(全裸)になって外に置いた重たいデッキチェアーに仰向けになり、ついそのままうとうとして眠り込んでしまった。空には満月に近い月齢の月が明るく照っており、私は日光浴ならぬ月光浴をしていたのである。月面のような色を英語ではopalescentという。昼間、日時計になっていた表面に錆びた手裏剣がいくつか残っている柱サボテントーテムポールは、夜間営業に入って月時計になっていた。ポッポー、ポッポー。
 ドビュッシーのClair de Lune『月の光』は、9月下旬以降少し気温が下がってきてから、広大な芝生のあちこちにハルニレの大木が生えている夜の情景を想像しながら聴くと就眠効果が高くてよろしい。ジェットストリ〜ム。現世での一切の懸案事項をきれいさっぱり忘れ去って、美声で何か言ってみたくなるが、うまい台詞が思い付かない。それでも、目を閉じてジェットストリ〜ム、とつぶやいてみると、高尚なバックグラウンドミュージックがオーケストラの生演奏で奏でられ、頭の中に華やかな夜空が広がって行く。自分の資産が宇宙のビッグバンのように急膨張して、世界的大富豪の水準に達している。もう、何でも好きなようにやれるど、オレ。取り敢えず明日は朝寝だな(他に何かもっと気の利いたことを思いつかないのか、このビンボー人め)。じゃあ、朝酒ぐらい足しておこうか。硬膜に包まれた、元々何も入っていない空虚な空間にミニ宇宙が現れ、流れ星がひとつ、ふたつ飛んで行く(「月が青いですね」)。機長と管制官の間のAirspeakとも呼ばれる航空通信英語でのやり取りが、交信中雑音混じりで聞こえる(訳:「ロンシャンの馬券買っといてくれたか? 明日未明、ロワシーに着く予定だ。ああ、しんど」)。ばけん? このばか〜ん。
 しばらくして、肌から骨、特に脊椎に感じる肌寒さと膀胱内に繰り返し波状攻撃をかけてくる圧力で目が覚めた。鋳物のトンカチで頭頂部を叩かれた訳ではない(「あ、頭蓋骨が凹んでる。通り雨が降ったら、ここに池ができて子どものカエルたちが喜んで遊びに来るぞ」「今日は人間の世界の市教育委員会の好意で、私たち雨蛙小学校古式泳法部も、この市営プールを使わせてもらえることになりました。広くて海みたいです。滅多にない機会です。25メートル全力で泳ぎ切ってみてください。余力のある方は、往復に挑戦してみましょう。では、始め! ゲコ、ゲーコ」)。
 私は書斎で外国語の文を音読してみる時の癖が出て、声を出して独り言を言った。スルシャエシュ。
「誰か代わりに行ってきてくれないか」
(すると、私の影が、そそっかしく立ち上がって行きそうになった。主人に似て忖度をしてしまうのじゃよ、私の影君は)。
 眠っている間に、体に少し波飛沫を浴び、砂も被っていた。安部公房を思い出した。このまま汚れた体で屋内で眠るわけには行かない。近くにオニグルミらしい長さ3メートル半もある流木を縦に立たせて埋め込み、上に水タンクをぶら下げてあるのだが、そこから冷えた水を我慢しつつ浴びて体の表面を気休めながらも若干きれいにした。
 まあ、どうせうちに帰ったら全身シャワーを浴びるんだし、と今度は校舎の中に入って本格的に寝ようとした。この時点で、少なくとも小春ちゃんに性教育を始めなくていい程度の布地を体に巻き付けている。サリーのような着こなしである。モデルのような歩き方はしない。備え付けのタオルケットはクリーニングの後、パックをされたものである。使うたびに封を切って出すので清潔である。ぼくらがまだ医学部や歯学部や薬学部の学生だったころは、金属が錆びてきて床にところどころ穴の開いた中古の四輪駆動車に乗せて当別のクリーニング屋に出していた。そう言えば、あのころのポイントカードがどこかにあるはずだ。もうとっくに失効しているだろう、と祖父と母に守られて自由だった無知で愚かな学生時代を懐かしむ。もう昔のようなあんなボロ車に乗ることはないだろう。そもそも売っていないだろうし。
 ハンモックに乗る。体は楽でもあり、不自由でもある。斜め下には15%ほど増量中に見えるボンレスハムが1本寝息を立てている。お腹なんかパンパンに膨れちゃってさ。こうしている瞬間にも、世界中で同時代人の顔ぶれがどんどん入れ替わりつつあるのだな。数分前まで岸辺にいたので、岸部一徳、徳島、マンゴー、海人(うみんちゅ)、湯浴み、と思考が脈絡もなく漂って行き、(み、み、は何だ)、不意にミカンちゃんのことを思い出した。外語大時代に結局学内でも学外でも男ができなかったので、卒業後、東大の大学院に進んでボーイハント(男活)を果敢に繰り返した結果、異常気象のせいか、ついに雲間に太陽が一瞬現れ、人生初デートに漕ぎ着けることができた。うふふ、うふふふっ。儀仗兵に命ず。祝砲五連発、撃ち方始め! ドカン! ドカン! ドカン! ドカン! ドカン!(土管?)。しかも、仮病を使って自分のマンションに送ってもらって、室内に入るや豹変し(「引っ掛かったな、ふっふっふ」)、柔道や合気道の技を参考に相手を引き倒し、反則攻撃まで総動員して事に及び、妊娠にまで辿り着いたのだそうである。もう一発、ドカン! おとなしい男子学生諸君、一見清楚そうな笑顔のカマキリには気をつけろ。人生落とし穴はすぐ目の前にある。
「しーあったー」
(気の毒に)。
 目を閉じて、仕切り直しで「に」から再開したしりとりだが、夢の中でその続きはしていなかった。眠りに落ちる瞬間に「ン」で始まる単語を考え始めていたら、きっと出口のない切ない夢を見ていただろう。ハンモック部屋でいびきをかく奴がいないのは意外だった。おかげで数分でぐっすりと眠りに就くことができた。目の周りや股間に悪戯描きをされなかったのは、他の連中も疲れ切っていたためだった。(これでオレたちホントに医者かよ?)。

第135章 ヨット整備作業2日目 https://note.com/kayatan555/n/nb153d8fdb561 に続く。(全175章まであります)。

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