見出し画像

『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第169回 第135章 ヨット整備作業2日目

 2日目は、2度目の塗装である。江戸時代の絵師の格好をして、たすき掛けで時々筆を口に咥えてみようか。この日の朝、実際に起きる2時間ぐらい前だったか、私は現実と同じに朝早い浜辺に来ている夢を見ていた。カノジョが出てくるところから始まったのだが、途中から妙な展開になって行った。仲間たちの手前、寝言を言っていなかったら良かったが、これは性質上、安心に値する調査・確認手段がない。
 昼間に比べれば光量は少ないが、それでも冷え込む中、真っ暗な一夜を経験した目には、すでに十分明るく感じられる。目の前には一時も動きを止めない海があり、朝日が波にきらめいて白金(しろがね)色の舞台になる。ふたりで素足のまま波打ち際のすぐ上の湿った砂浜を歩いていると、君の染めていない長い髪が、風でぼくの横顔や首や肩にかかって踊る。うーん、いい香りがする。キミは機関銃のような速さのフランス語で話し続ける。C'est l'élégance d'une femme moderneと言っているように聞こえる。他にも所々分かる単語がある。そう言えば、私もフランス語がun po’、あ、これはイタリア語だった、un peu、ちょっと、できるんだったざます。
 ドイツ語の正書法が変わって、アイン・ビスヒェン(=a little bit)が爺さんの時代のエスツェットを使う綴りじゃなくて、ein bisschenと書くようになってしまっている。独逸語を認める際には、くれぐれも昔の人間と思われないやうに用心しませう。
 日本語の漢字の場合にも、画数の多かった旧字体から1949年に現在の新字体に変更になった際に、それ以前の教育を受けていた世代は、文字を綴るごとに判別に戸惑わされたのではないだろうか。それまで、旧字体の人々は旧字体で思考し、旧字体で恋文もやり取りしていたのであるから。
 もし50年後に再びこの同じ場所に一緒にやって来られたら、君の髪は紫色の小火になり、ぼくの頭の上にはほとんど何も残っていないだろう。硬膜の下も似たような状態になっているのではないか。ぼくの頭頂に鳥が溶剤を入れすぎた絵の具のような流動糞尿か動物の残骸を落としていくかも知れない。そして、ふたりともそんな椿事に気づきもしない。だってボクらはマジ愛し合っているんだもん。
 風が強めで、ポロシャツだけでは寒いぐらいだ。すると、キミは指をパチンと鳴らして空中からポケット瓶を取り出してラッパ飲みをして、私にも渡した。用意がいいね(どこでもウィスキー)。ごくん。う〜ん、効・く。喉から食道まで一気に燃えてくる。その下まで想像力で念入りに経路を辿るな。次にキミが両手の指をパチン、パチンと2回鳴らすと、何と空中に熱い出来たてのラーメンが現れた! チャーシューも5枚ずつ入っている。理性を失わせる模様と厚さである。気を利かせて箸まで指に自動的にセットされている。それも夫婦箸である。一休さんの橋じゃなくて良かったぞなもし。指先が火傷をしそうになる。ずずず〜、ず〜っあ〜っ、うまい。最高だよ、この麺、このスープ。鼻水が出そうになる。いっそ、自然に任せて左右の鼻の穴から不揃いで垂らしちゃおうかな。湯気でメガネが曇る。自動的にワイパーが動いて曇りを拭い取る。ところが、上にシナチクの重なったチャーシューを噛み切ろうとしながら横を見ると、キミの体は12個の立方体のブロックに分かれて、風に乗って空を漂って行き、途中から針路を鉛直方向に変えて高速で上昇を続け光の柱になって行く。仮にかぐや姫だったら、こうやってそのまま月に戻って行くのだろうか。カノジョ、カムバーック!
 場面は一転して、うちの爺様が背中に「井戸掘りのご用命は丸原組まで」と白抜きで書いてある牡丹色の印半纏を着て、クジャクの羽根飾りを付けたボルサリーノを被って出てきた。この帽子の下のひたいには鉢巻きが見える。昔、札幌のある小学校では、たびたび先生に注意される坊主頭の児童たちに、目立つようにと鉢巻きをさせていたそうである。すると、休み時間には校庭のあちこちで少年たちが鉢巻きを付けさせられたまま走り回る姿が見られたのだろう。爺様もそうだったのか?
 爺様は帽子を片手で押さえてお辞儀をしたと思ったら、クルリと回ってその帽子を放り投げ、映画館で買うようなポップコーンの容器サイズの瓶からマーマレードを直接手で掬って食べ始める。指先から手首、そして肘までべとべとになっている。瓶が潜水夫用に特製した総ガラス製ヘルメットのようにもっと大きくて奥行きがあったら、頭をその中にすっぽりと突っ込んでしまいかねない様子である。甘い物が欲しいっていうサインかな。
 それにしても、いくら夢の中でも筋が滅茶苦茶である。今度薄々夢の中だと感じることがあったら、九蓮宝燈をやってみたい。そう言えば、爺様は干し柿が好物だったんだな。羊羹じゃダメだったか。
「秋になったら供えろよ」
(へいっ、わっかりやした!)
 ここでピクッと目が動いて(いごいて)目覚めてしまった。この夢の最後に唐突に出てきた祖父が二人のうちどちらだったか、よく分からなかった。二人を合成したモンタージュ・グランパだったかも知れない。
「目と目の間をもう少し狭めてみてください。広すぎるとクワガタみたいに見えます」

第136章 作業2日目、早い朝 https://note.com/kayatan555/n/nff7fce15f911 に続く。(全175章まであります)。

This is copyrighted material. Copyright (C) 2018-2024 by 茅部鍛沈 Kayabe Tanchin « Kayatán », 新 壽春 Atarashi Toshiharu. Sapporo, Hokkaido, Japan. 石狩湾硯海岸へ接近中は、新 壽春の登録商標です。All rights reserved. Tous droits réservés.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?