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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第170回 第136章 作業2日目、早い朝

 朝目覚める瞬間に何かを考えている言語がドイツ語だと、このことばと格闘していた東京での生活を思い出すことになり、その日は気分良く真新しい手つかずの1日を始めることができる。忘れてしまわないように、考えていた内容をすぐに音声入力して自分宛に送っておく。このせいぜい40秒程度の手間を怠ると、朝の慌ただしい出勤準備の最中に、短期記憶のドイツ語の文やら他の言葉で思い付いた何かのアイディアは忽然と消えてしまって悔しい思いをすることになる。
「何だったか思い出せないけど、キラキラしたとてもいいアイディアだったのに」
 東京時代の知り合いや間接的に情報の入るその他の外語大出身者(一部は中退や除籍である)の活躍が、テレビや新聞や高級誌に載る頻度が増してきている。タイ語専攻だった学生が外交官試験に一発で合格して、バンコクではなくパリの日本大使館の二等書記官になって赴任しただの、モンゴル語の学生がファッション誌の専属モデルになっただの、いろいろである。
 バツ2、子持ちの12歳も年上の女性に落とされて、実家・親戚・友人の全員から罵倒されながらも籍を入れて正式に結婚し、道北に移住して家具職人になった人間もいるそうだ。寒いだろう、あっちは。夏の快適さだけでそそっかしく移住を決めるなよ。でも、草野球ができるほどの広い庭や菜園は確保できるだろう。過疎地に住んでこそ経済的にも豊かで自由になれるような政策を講じて「適疎地」に変え、人口の北上を促進すべきだ。ホームページを探せば、この一家の笑顔の写真も見つかりそうだ。これでは切りがない。
 指先でブラインドの隙間を拡げて外を見ると、十数羽の鳥の群が横に滑るように飛んで行く。予報は当たり(モネちゃん、良かったね。「はい! うれしいです、わたし」)、昨日に続いて今日も快晴である。ペンキ塗りには最高の天気である。 生きているっていいな。
 夏の朝早い時間帯の海辺のすばらしさは、前の晩から浜に泊まり込んで、直接風に吹かれながらとっぷりと暮れたままの星空の下で静かに時の移り変わりを経験して初めて実感できる。とは言え、南は札幌市に隣接しているハマナス市もこのあたりまで北上してくると、夜中にどんな動物が出没しているか分からない。キツネは「ルールルルル」と呼ばれてもいないのに平気で出てくるし、タヌキは顔にドーランを塗って出番に備えているし(「あらやだ、あたしまたトイレに行きたくなっちゃった。最近近いのよねえ」)、シカだって安全とは言えない。大木の木陰で生理食塩水のプールに浸かりながら緩慢解凍中のマンモスだって控えていないとは断言できない(「人間の集落近くで耳学問で覚えていたロシア語、長いことシベリアの永久凍土に埋まって眠っている間にすっかり忘れちゃった。ヤー、ニェ、パムニュー、ニカコーヴァ、ラスィースカヴァ、スローヴァ。これ正しいかどうか分からない」)。だから、廃校とは言え、しっかりした建物の中に入って防御を固めて寝たのは賢明だったのだ。
 分校の落札まで校庭の隅にあった雲梯を、バーベキュー用のかまどの風上に移設して、ハンモックを4基利用できるようにしてある。風下なら即身燻製の一丁上がり。亜鉛をたっぷり含んだ錆止め塗料を塗ってあるので鈍い銀色に見える。素人工事で基礎部分のコンクリート打設をしたせいで、柱が約3度傾いている。10倍傾くと別の遊具になるだろう。海と陸と空の分岐線、そこを吹き渡る潮風の中で、洗いざらしのハンモックを吊して身を委ねてゆーらりゆらり、至福の夏。ここ北海道は、「天竺に一番近い島」より天国に近いかも知れない。この海辺でののんびりした時間が奇跡のように思える。今や日常となった手術室での緊張し切った瞬間瞬間の対極である。片目を開けると他の奴らが校舎から出てくるところが目に入る。(「気付かないふりしちゃおうかなあ」)。
 今日は、そのまままどろんでいてはいけない。昨日の続きが待っている。だが、すでに1回目のペンキ塗りをしてあるので、今日は作業がその分楽なはずなのだ。人生は加齢に伴い複雑化し負担が重たくなって行く一方であるから、中学生や高校生の時のように1日や1回で完結させられる仕事は減って行かざるを得ない。そのため、1つの仕事を分割して対処することになるのだが、少しでも下準備に当たる作業をしておいた翌日は、その若干ながらの進展に助けられ安堵することが増えて行く。
 自由時間こそが人生であり、その聖域たる時間を死力を尽くして確保し続けることが人生の最優先課題でなければならない。しかし、同時に、人が生きている以上、あらゆる重荷から解放されることは、恐らく最後までないのであろう。家康もそう考えたのだろう。
(“Yes, I did.”)。

第137章 ベルリンの市 https://note.com/kayatan555/n/na66866a5187a に続く。(全175章まであります)。

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