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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第90回 第73章 闘いの後の「円形湾」(“The Round Bay” After The Battle)

 海を愛し、波を畏れ、風にもてあそばれるヨットマン、ヨットウーマンたちは、あの真夏の2日間北太平洋の一部である北海道・内浦湾に集まって競い合ったのだ。本当だったのだろうか。夢を見ていたのではなかったのだろうか。レースでは様々な駆け引きや、成功や失敗や、事件や事態が発生した。それらの全体像を知る者は誰一人としていない。再び同じ顔ぶれが揃うこともないだろう。所要時間の集計で第2位と5.68秒差でカナダの某大学チームが優勝した。おめでとう、君らは最も優秀だった。賞金は事前予想を大幅に上回った。冷えたシャンパンが何本も立て続けに空けられた。コルクのひとつは重力を免除されたかのようにそのまま大空に上昇を続け、地球周回軌道に乗った。もうひとつのコルクは遠くハレー彗星との遭遇を目指して宇宙空間を飛行中である。
 レースからの帰りは、熊猫山鳥龍灸瓶にヨットを陸送してもらった。もう2度と、津軽海峡の潮の速い海域で太平洋に抜けようとする東向きの水の流れに棹して、川上りのように往路よりさらに抵抗の強い大波に曝されたくなかったのだ。それは安心で良かったし、札幌と江別からそれぞれ親から借りてきた、各々2枚の隔壁で仕切られた3世代同居型超大型キャンピングカー「食パンくん」2台で迎えに来てくれた部員たちと大滝の温泉に泊まって(品評会。5/8? 8/5!)、翌朝、柔和な表情のヒグマの親子と並んで川釣りをしてから帰ってくるドライブは気楽で楽しかった。
「釣れますか?」
 「入れ喰いでんねん」
  「あら、ほんま」
 浅瀬の川底に見える岩の模様が美しかった。アカショウビンらしい鳥が一羽視界を横切って森の奥に飛び去った。カメラマンが慌てて追って行った。セミの声がうるさかった。そうだ、気が付けば今は真夏だったんだ。鉛筆の森と艇庫の間を往復してばかりの単純化された日々に医学とレースのことばかり考えて、季節の移り変わりにまったく関心が向いていなかったのだ。
 南東方面の開口部を除き、ぐるり対岸の見える内浦湾からライフジャケットを身に付けた敏捷な動きのひたむきな若者たちの姿が消え、あの日の波はもうどこにもない。それなのに、秋口に入ってもなお体があの使用艇の6種類の揺れの合成具合を覚えていた。札幌に戻って自宅で寝ていても体が揺れる感じがして、しばしどこかの柱に掴まりたくなることがある。
「落ち着け、ここは陸上だ。地面は静止している、次の地震まで。また会う日まで」
 部員たちで、このヨット陸送の高額の運賃と保険料を払い終えるまでバイトが大変だったが、冬までには何とか払い終えた。レース参加証明として、後日もうすっかり気温が下がったころになって銀製のヨット模型が送られてきた。帆は絹製で、可動部を含め細部まで精巧に仕上げられている。参加者に敬意を表して、事務局からひとりひとりに無償贈与されてくるのだ。第1回大会の優勝艇を模してある。青森県のチームが優勝した年だ。
「けっぱったはんで」
 青い森とは美しい名前だ。ねぷたとねぶたの熱いどよめきが聞こえる。津軽とアイルランドは似たもの同士だ。
 底に通し番号、私の氏名、生年月日、生誕地、国籍、参加チーム名、順位が日本文字とローマ字で刻印され、さらに使用艇をバックに撮影したチーム全体の記念写真が添えられている。その中で、ぼやけて見える「飛翔体」はシャンパンのコルクである。仮に私が将来病気や怪我、老齢で歩けなくなることがあっても、この模型と写真を見ればあの一夏の奮闘、栄光の涙、仲間たちの声を思い出すことができるだろう。思い出はいつまでも若く、ボクらの流線型の不沈艇は銀の波に乗り、金の風に吹かれ続ける。目を閉じれば、Alte Kameraden(旧友)の力強い旋律が響いて行く。ドイツ語ほど音楽に向いた言語はあるだろうか。
 その後もレースは毎年急速な技術革新でハイテク化している。わずか4年前とさえ様相は大いに異なっており、艇がすっぽりと海面から浮き上がって水の抵抗を抑える水中翼船化したクルーザーが主流になってきている。あれはもう船ではなく、戦闘機の一種である。

第74章 ヨット訓練より浜辺で酒盛り、そして卒業 https://note.com/kayatan555/n/n6d5598eed8d3 に続く。(全175章まであります)。

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