見出し画像

『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第106回 第83章 Ingot We Trust

 エントランスに高価そうな石材を組み合わせて使った威厳を感じさせるファサードの城砦のような店内に入るときに、自分が敗戦国の全権代表として講和条約調印式に臨むような気がした。すると、身長190センチ、胸囲120センチ、靴のサイズも30センチはあろうかと思われる店員2名が奥から布地が平均の倍もかかっていそうなタキシード姿で出てきて慇懃に挨拶をした。それぞれ両手にはシルクの手袋をはめている。その後ろには、日本刀が一振(ひとふり)剥き身で展示されている。奥に用心棒の剣術使いの侍が控えているのかも知れなかった。異界に一人きりで乗り込んでいった私は萎縮してしまい、ここからはもう店の人間にそれとなくナッジされるしかなかった。
 インゴットとダイヤの購入に際して身分証明書として運転免許証を提示させられたが、あの顔写真はあまりうまく写っていない。背後霊が念のため自発的に待機していた丑三つ時ではなく、少しずれた想定外の時刻に叩き起こされたため、当惑気味でありながら、それでも空気を即座にしっかり読んで義理堅い笑顔でピースサインをしているし。次いで数枚の書類に記入を求められたが、金メッキの細くて堅いボールペンを持つ手がうまく動かず、自分の名前にある、これまで何度も書いている「浄」の文字がうまく書けなかった。うっかり点を1つ蛇足で加えて、「さんずい」を「よんずい」にしてしまいそうだった。鼓を手で打つ演奏に合わせてそのまま反時計回りに点を足して行くと、「争」をぐるりと囲む装飾文字になっただろう。購入する金の質量と個数の指定、そしてダイヤの選定に集中した息詰まる小一時間が過ぎ、店員たちが立ち上がり深々と頭を下げた。奥から衣擦れの音が聞こえた。手に入れたtangible assetsの比重の高さに驚いた。経験したことのなかった重量感である。深呼吸をしようとしたが、咳が出そうになった。私は「物」(ぶつ)を入れたリュックを体の前に抱きかかえ、石の城から外に出た。
 私以外でこのリュックの中身を知っているのは間接照明の店内の宝石商たちだけだった。それなのに、純度99.9%の金塊群とケースに入れられた多面カットの「石」複数(何粒かは秘密)が、周りの歩行者たちから無防備に透視されてしまっていて、その一人一人の視線が自分にゆっくりと向けられてくるかの幻想に囚われた。しかし、実際には、相互に無関係、無関心のアカの他人同士が歩道上を無秩序に散らばって移動しているに過ぎなかった。心臓の動きが速いまま他の歩行者と同じペースで歩いていると、少しずつ落ち着いてきた。そうそう、誰も気付いてなどいないのだよ、チミのことなんて。だが、次の瞬間、沈黙が破られた。
「おーい、待てよ!」
 後ろから誰かが大声を上げて走ってくる音が聞こえたのである。まさかこのオレを狙っているのではないだろうな。幸い、手に刀は見えない。持っているのは槍である。ウソ。
「シェー、あちきのことは見逃してくんなまし」
 心臓は再び激しく鼓動を打ち始めた。今日履いてきたドイツ人マイスターの店でオーダーで作った革靴は、ジョギングシューズではないが、適度な重さがあり、体の一部のように足にぴったりしているので、いざとなったら走って逃げるのには向いているようだった。だが、数秒後、その足音の主は私を襲撃するのではなく、横をそのまま駆け抜けていった。狭い範囲内で乱気流が起こった。10メートルほど先を歩いていた数人が振り返った。何だ、笑顔の修学旅行生たちじゃないか。見慣れない制服だ。どこの学校だろう。うんと楽しんで行ってくれ。できたら移民してきてくれ。木陰で一緒にビールを飲もう。きっといいこと一杯あるぞう、これからの北海道は。その逆に、大災害が連続すれば札幌が暫定的に首都にならざるを得なくなる可能性さえ出てきているのだ。今回の修学旅行の思い出は、きっと仲間同士で一生繰り返して話すことになるのだろう。
「恵庭のあの洗面器アイスクリームうまかったな」
 この生徒たちが遠ざかっていって、ますます数が増えている中国語や韓国語やインドネシア語の観光客に混じりながら風に吹かれてさらに数ブロック歩いていると、空冷の脳がようやく正気に戻った気がした。そこで、車道の反対側の歩道に回って、普段は乗ることのないタクシーを拾って帰宅することにした。このような日に地下鉄で帰るのは適切ではない。
 金塊とダイヤモンドは、事前に買っておいたハイテクのステルス金庫(まさか)に入れて、65桁もの無法則の複雑怪奇な暗証番号を設定した。レインマンではないので覚えられない、と言っていられないので必死に暗記した。この番号メモはこの金庫の中にだけある。外部にはない。無意味な配慮である。オレってこういう無鉄砲なところがあるな。これ忘れたらどうしよう。(これでまず解錠できないことが確定してしまった)。私本人の死亡により金庫は単なる岩となる。

第84章 浮かれすぎて冷や汗(前半) https://note.com/kayatan555/n/n9323e40d9269 に続く。(全175章まであります)。

This is copyrighted material. Copyright (C) 2018-2024 by 茅部鍛沈 Kayabe Tanchin « Kayatán », 新 壽春 Atarashi Toshiharu. Sapporo, Hokkaido, Japan. 石狩湾硯海岸へ接近中は、新 壽春の登録商標です。All rights reserved. Tous droits réservés.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?