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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第107回 第84章 浮かれすぎて冷や汗 (前半)

 その夜は高校時代の友人が東京から遊びに来ることになっていたので、昼は溶けた砂糖のかかったドーナツを2個と、根昆布、唐辛子入りの白菜の漬け物を少々食べただけで、1時間ほど自宅で仮眠した。平日真っ昼間のうたた寝の甘美さよ。「ああ、拙者は幸せでござる。引き続いて成仏してしまっても構わないでござる」(チーン)。
 目覚まし時計が鳴る直前にスイッチを押して鳴るのを阻止して、うんと早めに出かけた。今日、オレは人生の勝利者だ。この1ヶ月ほど緊張が続いていて神経が疲れていたし、せっかく病院も今日は丸一日お休みをいただいていたので、中途半端な時間帯だったが、最近できたばかりの回転寿司屋に入って、生ビールを2杯続けて飲んで一人でお祝いをした。新規開店キャンペーンの1杯50円引きのクーポン券があったからである。病院にやってきていた保険外交員から5枚ももらっていたが、今日のところは2枚に留めておいた。何だか気が大きくなって(何しろ人物が小さいので)、普段は取らないアワビの皿を3つも取った。小樽だけでなく、札幌だって寿司天国である。どうだ参ったか。寿司が好きなら北海道に住むことである。幸福は寿司に宿る。この島こそ、世界有数にそのための条件がいい。
 手元に大金を残していなかったので、解放感に包まれた出来心で、それから予定してもいなかった映画まで見に行った。上映間際になってはいたが、別に誰に急かされていたわけでもなかったのに、券売機で唯一空いていた通路と通路の真ん中近くの席を買った後、ついトイレに寄らないままシアター内に入ってしまった。アルファベットを確認しながら(西夏文字やアラビア文字じゃなくて良かった)通路階段を上がった。すでに座っている他の観客たちの膝と前の座席の間の狭い空間を不自由に歩く時、何となく肩身の狭い思いをさせられる。
「対不起(ドゥイブチー)、excuse me; pardon; Entschuldigung; scusi; per favore, 御免なんしょ、すんまへん、うちは分家の人間ですけに、へぇ」
 特に緊張するのが、うら若き(暗いので容貌ははっきりとは観察できないが。錯誤だったらショック。わらわは恨むぞえ)女性の席の前を横切る時であり、うっかりバランスを崩してその太股の上に北海道方言で言う「おっちゃんこ」(=座る)してしまったら、その刹那に私の医師としてのキャリアは全部パーになるな、と血圧が上がっているのが意識できる。やれやれ、自分の席に無事座れたぜ。すると、画面は半年も前から見たいと思っていた映画の予告編に移っていた。私はいつもなるべく何の予備知識もないまま映画を見ることにしている。だから、一場面でも事前に見てはまずいし、台詞や効果音を聞いてしまってもいけないのである。そこで、画面から視線を下げて両耳を人差し指で堅く塞いだ。特殊な訓練を受けているわけではないので、足の小指で塞ぐことは無理である。20数秒後に、かすかに聞こえる音声で予告編がようやく終わった気配がしたので、席に背を伸ばした。座高が伸びたわけではない。もしそうなら後ろの観客に迷惑である。しかし、この時すでに危機は始まっていたのじゃ(不吉な背景音。サメがロウソクの煙のように近付いてくる)。

第84章 浮かれすぎて冷や汗(後半) https://note.com/kayatan555/n/n307c5e458877 に続く。(全175章まであります)。

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