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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第4回 第3章 6月中旬の美瑛

 180秒で自動的に光が消えるサーチライト型のLEDを点けると、壁の大型カレンダーの女優が微笑んでいる。
「うふっ」(疑似恋人風)
「アハンッ」(似非英語風)
 そうだ、今日は6月18日だった。この女優は今見えている5月・6月分のページでは、初夏の高い青空の下、美瑛の丘を流れるように走る一輪車旅行グループ「若い輪っかの会」の一員として登場している。
 この一行は風に舞う連凧のように見える。全員お尻を左右にプリプリっと動かしながら、両手を高く挙げ手のひらを天に向けている。このY字形姿勢は「歓喜のポーズ」第1番である。第5番まであるが、いずれも一輪車に乗りながらするので、不自然な姿勢から、番号が上がるにつれて次第に転倒の危険が増す。
 衛星から指紋が判別できるだろうか。かつて、ソ連の科学者はソ連の衛星からは地上の新聞が読める、と言っていたそうである。それは『プラウダ』(「真実」の意)か?
 遠景には、慢性腰痛に気をつけながら、しずしずと後ろ脚で立ち上がって、少し傾き、錆の目立つスピーカーから流れる、細い溝に針を乗せた黒光りするLPレコードの時折雑音の混じる曲に合わせて、お盆のフォークダンス大会向けの練習をしている定年退職ホルスタインの一群が見える。♪ チャーララッラッラッララララッラッラ。
 ♪ さあ、右足出したら左足
   あちこちの牛糞踏んじゃった
   その上に倒れて悲惨顔
   どこにもシャワーはありません
「シェー」
 時々、ドジョウすくいのポーズを入れてアレンジする。
 スコットランドが舞台の演劇ではないが、昼間なのににわかに暗くなった空に稲妻が走り雷が鳴ると、驟雨の中見渡す限りの緩やかな起伏の草原で、酒も博打も好きな飲む打つcowたちの白黒の模様が一瞬反転してネガ・ホルスタインに変わる。
「ブーマー」の声が聞こえる。
「わしら昔青春してたとき、ジョン・トラボルタと一緒に『フィーバー』ってたんだもんね。肘から先を互い違いに平行に並べてぐるぐる回す挙動不審の構えで。そうやって、目付きのマジ鋭い科学者の叔父さんが発明してくれた、ゴミを燃料にした車に乗って未来に飛んで戻ってたんだもんね。フランス人のJules Verne(ジュール・ヴェルヌ)の名前を、もろアメリカ英語読みでジュルズ・ヴァーンって平然と読んでたんだもんね。アメリカに住んでると、いつの間にか誰でもアメリカ人になっちゃうんだもんね。すんごい国だねあそこは。ソン(村)立中学校の数学の授業じゃ、徳川幕府謹製の葵三角定規を使わされていたんだもんね。祖法でござる」
 ウシたちの列の先頭から最後部までの長さはざっと1.2キロほどもあるだろうか。あなたの自宅からこの距離離れた場所には何があるだろうか。いつもは2重の円陣を組んでぐるぐる回っているのだが、これが上から見ると、ボールベアリングや数珠の内側と外側がそれぞれ反対方向に超低速回転しているように見える。ナンマンダブ。興に乗ると、円をほどいて紐のようになり、丘を上がったり下ったりして農地を延々と練り歩いていく。緑の遠く向こうには十勝岳連峰の山並みが、蒼く白く静かに横たわっている。ここ、ほんとに日本か? スイスの山岳部の草地のように、ヨーデルでも聞こえてきそうである。
「よう出る?」
「何がじゃ?」
 観光バスや一般車両が毎年激増している道路を横断するときには、幼児教育全国ナンバーワンの洛南牛酪幼稚園(The Southern Part of Kyoto Butter Kindergarten)で教えられた通りに、片方の前足を上げ、もう片方の前足で脇の下を隠しながら車が止まるのを待つ。
「こうするんどすえ」
「へぇ」
「はーい」
 こうして、事実上のフットパスが生じる。その都度農作物を踏みつぶすので大迷惑な話である。ガイドブックに紹介されているあちこちの丘に映える有名な木々の写真を撮ろうとして、道路から畑に不法侵入を決め込む観光客どころではない。アメリカ中西部ならきっと即刻猟銃の餌食にされるところであろう。こういうのも、英語でquick justiceというのだろうか。特にかなりの急傾斜もある下り斜面を下りるときに気をつけないと、脚を折ったり腱を傷めたりしてしまい、ソンから強制的に出立させられる日が早まってしまう。
「さよなら、元気にしてね」
 もうみんな老眼鏡が欠かせない。農協から団体割引販売されていた補聴器の60回ローンがようやく終わったので(「高かったの、これ」)、次に、札幌の「狐小路」から来たと言い張るセールスマンに、「ヤングなお客さまは、ナウい」(ひえー)とおだてられるまま鼈甲縁の遠近両用メガネを奮発して作ったばかりなのに、うっかり座椅子の上に置いてその上に座ったりしている。
「たまに気分転換に、体の模様を世界地図に変えてみたりしてみますか? 特定の場所に焦点を合わせて何段階かでズームインしていっても画像の変化が面白いでしょうね。何頭か縦列で脇腹に白黒の電光ニュースを流してみたところ、予想通り天気予報の注目度が高いことが分かりました。企業提携で広告を入れるとお金が入ります。ここに料金表があります。今この辺りの牧場で一番の話題は、問題が45分ごとに入れ替わる懸賞付き数独です。青空に白い雲で数字を書いて出題されるんですが、あちこちで牧草の上の低土塁方陣にウシ文字で解答して、空中からドローンで撮影して応募するんです。制限時間が短いんで、ゆっくりとよだれを垂らしている暇なんかないんです。モー、大変」
 前後の脈絡なしに、きたやまおさむ(北山 修)が九州大学医学部教授定年退官記念に開いたコンサートで、坂崎幸之助たちと一緒に歌っていた「あの素晴しい愛をもう一度」のメロディーが頭を流れる。オレは命かけてなんか生きていないなあ。かけているのは、願と胡椒と七味唐辛子だけだ。
 暑い地方出身の猫舌の俳優が、北海道のどこかでロケが終わった後、エキストラ出演してくれていた近くの高校の運動部の練習に誘われて吹雪の中を一緒にジョギングしてきてから入った食堂で、利尻昆布と江別の小麦を使った熱い鍋焼きうどんを注文したら、どう食べるだろうか。麩で舌を火傷するだろうか。メガネは湯気で曇るだろうか。
 美瑛では夏至の3週間後前後が開花の絶頂期になることの多いラベンダーにはまだ少し間がある。紫色の花を咲かせる別の植物もきれいである。あれはサルビアだったっけ。畝状に作付けされたジャガイモは薄紫と黄色の花を咲かせ、小麦は気楽そうに穂を揺らしている。
♪ わしらは静かな合唱団
   野原で歌うよ合唱団
  うどんやパーンになりまする
 うっ
 ジャガイモは、フランス語でpomme de terre=ポム・ド・テール、南ドイツの方言でErdapfel=エーァト・アプフェルといい、いずれも「大地のリンゴ」という意味である。これらに対し、ドイツ語では一般的に、地中から採れるという類推から、イタリア語のトリュフ(tartufo)に由来するKartoffel=カルトッフェルという単語を用いる。
 アスパラガスは地上すれすれにたなびく淡緑の霞のように見える。ビート畑もあちこちにある。連作障害防止のため、それぞれの畑に毎年何か別の作物が植えられるため、同じ色合わせの美瑛を見ることは2度とできない。
 空港の滑走路延長上に立って見上げると、広い空にジャンボジェットやエアバスがゆっくりと飛んでいる。なぜ、あんなに大きな代物が空を飛べるのか、不思議でたまらない。と言っても、合成投射映像ではあるまい。
 旭川市のすぐ南東には東神楽町、東川町、美瑛町があり、それらのさらに東一帯には大雪山が控えている。数々の高山植物の開花は天国を思わせる。各種の木の実が豊作の年に、意志の弱さからついつい食べ過ぎたモモンガが、巣穴の出入り口にぷっくりしたお腹をつかえさせてしまうことはないだろうか。出るに出られず、戻るに戻れず。前後の脚で虚しく悪あがきをする。近くの空には鷲(儂?Me?)、鷹、タカが旋回している。
「しーあったー!」
 まるで、論文の進まない大学院生みたいである(「してみると、あの入試は罠だったのか?」)。岩の隙間に棲むエゾナキウサギたちは一生慎ましい生活をして、一度も山を下りることがないのだろう。体重がたった140グラムぐらいなんだから、いっぺん思い切ってドローン編隊を組んで修学旅行で出てこいやー。
 ある登山家グループが、美瑛の奥まったある一角を美瑛貴船渓谷(The Biei Kifuné Gorge)と名付けたそうだが、記録がないためその場所は特定できない。でも、きっとあそこだな、という想像はできる。
 車輪がひとつしかない不安定な乗り物のペダルに両足を乗せた女優だが、月末にカレンダーをめくると、次は7月と8月に替わり、どこか別の場所での別の笑顔が現れるはずだ。同じカレンダーでも、この夏の開放的な気分の2ヶ月分を見るときは見合い写真を開くのに似たときめきを覚えるが、11月、12月の分の場合は、高校時代の受験勉強の緊張を思い出す。
「チミの模試のこの成績じゃ、到底そんな難関大学なんて目指せないよ」
 2枚続いて一輪車だったら、今後の女優生命が暗示されているだろう。早く次のが見たい。まさか不機嫌顔ではないだろう。そんな女優カレンダー見たことない。一部のマニアは好むかも知れないが。(ここで英作問題です。「わたしはひどく怒っています」を英語に訳しなさい。試みの解答: “I am pun pun [sic].”)。
 カレンダーの真夏のページはどんな衣装の写真だろうか。水着だろうか、ワンピだろうか。まさか継ぎ接ぎだらけの野良着じゃないよね。
「まあっ、失礼な。うちは初孫のふんどしの果てまで大島紬ざます。隣の部屋に運ぼうと、あーらよっと持ち上げるときに便利ざます」
「きゃっ、きゃっ! じょー」
(あらあら)。
 鍬をこちらに向けて畑にはっしと振り下ろす瞬間の写真だったら、見るたびに思わずぶったまげて体を翻さなければならなくなってしまう。脊椎を捻って腰痛になる危険大である。
「治療法はダルマ落としですな。問題箇所の椎骨を1個パカーンと外します。ちょうどその分、座高も短くなって好都合でしょう。飛んで行った骨はアイスホッケーの練習用パックに使います」
 この女優は小石川植物園近くで生まれた江戸っ子である。しかし、幼稚園の年長さんの年に引っ越して都内を離れ(ここで人生最初の辛い別れ。「えーん、ぱぱのばかぁ=PB! ぐれてやるー」)、茅ヶ崎育ちとなった。光るさざ波とサーファーとヨットとスポーツカイトと班別に行動する修学旅行生(班長のリーゼントの生え際に光る冷や汗。「よーんはーん!」)と内外の観光客と江ノ島とペリー艦隊を右手に見ながら、急カーブの区間も含めて混んだ江ノ電で海岸沿いを通った高校を経て、都内の某私大を卒業した。鎌倉はいつも混んでいる。これは、従来は東京だけでなく全国からも、車、在来線、新幹線、飛行機まで使ってやってくる国内の観光客が多かったためだが、さらに、近年は外国人観光客が目立って増えており、その数はもはや地元民の日常生活を著しく困難にする対処不能の域に達している。かまくらはCamacura(キャマキューラ)になったのだ。
 このコは、もろ恵まれた東京・湘南ガールだ。何を着ても似合うけど、できたらバーガンディーのポロシャツを着て、デッキシューズを履いていたらいいな。
「うふっ」
 安いサンダルでも、それはそれでいいけれど。この23歳の女優の笑顔、もう最高っす、ぐふふ。
 あ、灯りが消えた。人生暗転でござる。180秒間ずっと妄想に浸ってしまっていたのだ、オレ。油断の塊。そのうち太れば油分の塊。
「ただの男さー」
 札幌地区のみ先行試行段階のAI判事による即日結審判決確定。合成音声による言い渡し(「ち・き・ゅ・う・じ・ん・よ」)。
「主文 付加刑として、被告人の夏は終生これを没収する」
「お代官様、そんなご無体な。5ヶ月冬の地方もある北海道で夏をちょん切られたら、もうこの世は地獄だに」
 まるでオレの人生みたい。それにしても、今日という日は、12月18日と何という大きな違いだろう。札幌は緑か白かどちらかしかないのだ。
(ここに限らず、主人公の脳が緩いので、この物語はあちこち脱線します。川が蛇行するようなものです。何しろ三ヶ月湖医歯薬大卒なので。と言っても、利根川が越後平野や大阪湾や死海に[どやって?]流れ込むほどの振れ幅にはしないつもりです)。

第4章 ドイツ語専攻 + 医学部受験の方針決定(前半) https://note.com/kayatan555/n/n489043fbf678 に続く。(全175章まであります)。

This is copyrighted material. Copyright (C) 2018-2024 by 茅部鍛沈 Kayabe Tanchin « Kayatán », 新 壽春 Atarashi Toshiharu. Sapporo, Hokkaido, Japan. 石狩湾硯海岸へ接近中は、新 壽春の登録商標です。All rights reserved. Tous droits réservés.

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