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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第48回 第40章 ピッツァ (前半)

 私もピザを一緒に食べた。垂れたチーズが細く糸のようになって、風でまぶたにくっついてしまった。両眼に税務署の差し押さえの赤札を貼られるとこうなるのだろう。トッピングには金属とプラスチック以外は何を乗せてもいい。いや、ガラスも困るな。入れ歯もダメぞなもし。その日のピザには溶けたチーズに隠れたり隠れなかったりして、数種類の食材が乗せられていた。いずれも、ずっと口の中に入れておきたい美味しさだったが、これを実践してしまうと顔はシマリスのように左右が膨れてしまう。
 その10年以上後になって、ローマに行く機会があった。欧州全体に広がる高速鉄道がイタリアでも各地で開通していて、テルミニから片道2時間足らずでフィレンツェに行くこともできた、と知ったのは帰国直後であった。残念至極じゃ。いつも「海外旅行ノート(来月行くぞ、金を用意しろ)」を作って、そのうち行きたいと思っている都市や地域についての調査をしておかないと、急に外国に行けることになっても準備は到底間に合わない。カリフォルニア、湖水地方、南フランス、プラハ、バルト三国、ベトナム、バリ、タヒチなど、世界各国分、10冊は空のノートを用意しておいた方がいい。そのうち、少しずつメモを書き込んだり、写真を貼ったりして行けばいいのである。国内編も同様である。少し贅沢なくらい調査費を使うことが大事である。ガイドブックを1冊で済ませてはならない。できれば各国、各地域について最低4冊は買って読んでみることである。内容が古い案内書は役立たないのではなく、有害である。だから、2年以上前の資料は捨てなければならない。こうした旅行調査準備自体が至福である。
 その時に、目の前の数百年も前から使っているような大理石の上で用意した生地に無造作に具を乗せていって石窯の奥に入れて焼いたピッツァは熱々で味も最高だった。思い出すだけで、唇から舌から口内から軽く火傷をしそうな感じになる。焼いてくれたのはイタリア人に見える男性で、現にその人物の話すイタリア語は一部理解できたのだが(母音の多い言葉なので、あっさりと聴き取れる。個々の単語の意味が分かることとは別だが、入り口として聴き取りが容易なのは有難いことである。これはイタリア語学習者への福音である。フランス語やロシア語となるとそうは行かない)、その隣でアシスタントをしていた黒人が話していたのはフランス語に聞こえた。難民としてイタリア定住が認められた旧フランス植民地出身の男性のようであった。ヨーロッパはもうどこもかしこも多民族化している。スイスもベルリン市も外国人比率が28%にもなっている。これは明日朝か明後日夕暮れ時の日本の姿であろう。
 ただし、このピッツァのプレートと特に美味しくも不味くもなかった赤ワインを置いた立ち席のごく狭い丸テーブルの近くにいた連中は、目付き、服装、声の大きさ、振る舞いの粗雑さから、人の一人や二人殺した前科があってもおかしくないような印象であり、私は現代イタリアの首都というよりは、治安が悪く犯罪や違法行為の猖獗する古代のどこかの交易都市で、道幅の狭いバザールやスークを丸腰で訪れているかのような緊張感を味わっていた。私は中型の方のスーツケースを両脚の間に挟み、最高度の警戒心で「舐めンなよ」とばかりに周囲を睨みつけながら、せっかくの食事を慌ただしく終わらせざるを得なかったのである。あの本場の絶品のピッツァはもう少しゆっくり食べたかった。それどころか、すぐに別のもう1枚を注文したいほど美味しかった。
 幸い、誰も近付いて来ず、持ち物も何も盗られず、殴られもしなかったが、すぐ後に近くの売店でイタリア語とドイツ語とアラビア語の新聞を買った時には、日本円にしてわずか3円ほどお釣りを誤魔化された。塵も積もれば山となる、であろう。それとも単なる計算違いだったのかも知れない。いずれにしても、日本ではまったく考えられないことである。ちなみに、アラビア語は勉強したことがないし、これからも勉強する予定もないが、ヨーロッパにいると売店で各国語の新聞その他が目立つので買ってみただけである。活字(なのだろう)が他の言語の新聞より随分大きめで、紙面の情報量が少ないように感じた。

第40章 ピッツァ(後半) https://note.com/kayatan555/n/n1415c32fbb21 に続く。(全175章まであります)。

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