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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第155回 第121章 父の死の秘密

 気が進まないが、父の命を奪った真の原因を明かしておく。これを決意するだけで、私は脳に直接ヤスリをかけられるような思いをしている。
 すでに死因として一部挙げた個々の原因はすべて事実であるが、それらは寄与要因に過ぎず、実は犯罪の被害こそが致命的だったのだ。このことは、思い出すだけで生き続ける気力を奪われそうになるため、普段は記憶の奥底に封じ込めている。医学上厳密な因果関係の立証はできないし(できてももはや無意味であるし)、法律上もすでに公訴時効が完成し、除斥期間も満了してしまっているが、恐らくは父の難病の原因となったに違いないと私が確信している重大な事件があったのである。それは不条理かつ戦慄すべき犯罪だった。
 私が生まれた札幌から離れて2年間住んでいた旭川時代のことだ。私は小学生だった。成績が良すぎて、転校直後から早速公然とした虐めに遭ったのだが、ここで告白するのはそちらの問題の方ではない。短い夏のある日曜日に、父に連れられて常盤公園(Tokiwa Park)に行って池に帆船の模型を走らせようとしたことがあった。東京の豊かな親戚から贈られてきたプレゼントであった。私がピアノと並んで習わされていた水泳で、100メートルを完泳して級を取ったお祝いで、別便で届いた手紙には、「じょうくん、おめでとう、よかったね。おじちゃんもおばちゃんもうれしいよ。このおふねにかぜがあたって、せかいをたのしくまわるそうぞうをしてみてね。こんどのしょうがつやすみには、ひとりでひこうきであそびにきてください。くうこうまでむかえにいきますよ。おもちはなんこたべられるかな」と書いてあった。私はすでにこの文の範囲ではいくつか漢字が読めたのだが、叔父叔母は無難にと考えて敢えて全部ひらがなにしておいてくれたのだった。使ってあった切手も便箋も封筒も趣味のいいもので、この贈り物も手書きのメッセージもどこまでも優しい配慮に満ちていた。
 嬉しかった。この親戚は二人ともそれぞれ涙なしには聞けない境遇の極貧家庭に育ったが、刻苦勉励して上京し、経済的に成功した。子ども全員を難関大学に進学させて卒業させた。それでも、一向に驕ることなく堅実な生活を送っている。そして、親戚中の子どもたちに絶妙のタイミングでプレゼントを贈ってくれるのである。私の兄も、私自身もその恩恵を受け続けることができた。我々兄弟が大学を出て稼ぐようになってから、ようやく少しだけこの親戚に恩返しができるようになった。
 父はこの美術品級の高価なプレゼントを医大に近い忠別川(The Chuubetsu River)に持って行くのではなく、町の中心に近い公園に持って行って池に浮かべて私を喜ばせようとしたのだった。ところが、父が池のほとりにしゃがんだところ、技術系の公務員が着るようなユニフォームを身につけた男が一人飛んできて、父を咎めた。ボールペンを差した胸ポケットに刺繍で氏名が書かれていたようだが、記憶ははっきりしない。この男は父に、「おい、そこの、すったらはんかくさいこと、すぐやめれ」と言ったのである。市の職員なら標準語を使って「そんな愚かなまねはやめろ」とか「やめてください」と言ったはずである。しかし、その時は父も私も相手の形相に驚いていて、言葉遣いにまでは気が回らなかった。
 父は尋ねた。公園管理規則の第何条に違反しているのか、と。すると、質問をしたこと自体に激怒したこの相手は、何も答えずに、短気な大声を出し、いきなり実力行使をした。模型を勝手に掴んで高く持ち上げて、地面に叩き付けようとしたのである。私はこの男が大切な模型に触れた時点ですでに全身から炎が吹き出してきそうなほど腹が立った。あのおじちゃんとおばちゃんがボクにお祝いにくれたんだよ、その船。何で何の関係もないあんたが勝手にいじって壊そうとするのか。やめてよ、お願いだから。まだ、1回も水に浮かせてみていないんだ、それ。ボクのお小遣い10年分でも買えないぐらい高いはずだよ。
 父は、すんでの所で暴挙を止めさせた。父は静かに、しかし語気鋭く言った。「まず身分証明書を提示しなさい。それから質問に答えなさい。その帆船模型は私の大切な息子の所有物であり、あなたが無断で触れるのは許しがたい犯罪だ」と抗議した。すると、この人物はどんな育ち方をしたのか、ますますいきり立って、右手に持っていた先端がL字形に曲げられている火掻き棒、当時の北海道での呼び名でデレキないしデレッキの尖った先を父に向けて威嚇したのである。冬に室内で石炭ストーブ用に使う道具を、夏に戸外で持ち歩いている人間なんかいない。私は恐怖で声も出せなかった。誰もが自由に入っていい公園に平穏に模型を浮かべる水遊びをしに来ただけなのに、この男はまるで封建時代の旗本の手先が日本刀を身分の低い寄る辺ない人間に突きつけるような居丈高な態度を取ったのであった。
「この無礼者、ご公儀に楯突くとはふてえ野郎だ。逆らうと、たたっ切るぞ。貴様なんかを殺(あや)めたところで、俺様はお咎めなしだ」
 父は名門大医学部を出たれっきとした医師、医学博士であり、当時氷結川医大で研究を続けていた。この粗暴な輩とは人間の格がまったく違っていたのだった。
 この男は、次いで当時まだ身長が120センチになっていなかった私につかつかと近づこうとしたので、父が体を張って私を守ろうとしてくれた。すると、この男はデレキを振り上げて「てめえっ」と叫びながら力一杯振り下ろした。

第122章 暴漢からの襲撃 https://note.com/kayatan555/n/ne1c73effd29d に続く。(全175章まであります)。

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