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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第165回 第131章 船底ガリガリ

 ヨット洗浄には我々の艇庫から至近距離にある公設ヨットハーバーを使わせてもらうことにしていた。予約もちゃんと取ってあった。船底にこびりついた貝類などの生物を定期的に除去しなければ、ヨットのスピードが著しく殺がれてしまう。だから、この作業は不可欠なのだ。言わば、ヨットの歯石取りだな。今日、明日の2日連続である。今日は汚れ落とし、洗浄、乾燥、塗装第1回。明日は塗装第2回である。海に関わる人間たちはすぐに親しくなれる。眼球に波がちゃぷちゃぷしているから、海好きと一目で分かる。まして、厚めのステーキ肉をクーラーに入れて手土産に持参すると、効果は抜群である。
「あ、たれならこっちにあるよ」
 もーまったく、右も左も飲んべえだらけやんけ。
 いよいよ張り切って船底をガリガリやるのだ。バッテリーを始動させる。生きの良い響きが聞こえる。こういう体を使う仕事って楽しい。オレ職業選択を誤ったかも知れない。例えば、大工って格好良くないか? 材木の上で墨壺の糸をパチンとやってさ。邪念が膨らんで行く前に、さっそく、墨壺ならぬフジツボを削って落とし始める。よく見ると気持ちの悪い形をしている生物なので、なるべく正視せずに船底との境界付近を攻める。ついつい、やぶにらみになってしまう。
「お前に操船させるヨットはねえっ!」
 こびりついている物の中には、他の生物もある。奇妙なデザインに見える。自然は天才デザイナーたちの集団である。敵が何であれ、船底に付着している障害物は極力刮げ落とさなければならないので、いつもは使わない馬鹿力を使う。うちにあった古い工具も持って来ているのでごしごし使う。力を入れてヨット表面にこびりついた貝を剥がしていくのだから、単純な作業である。これにしばらくかかった。さらにサンドペーパーがけである。次は高圧洗浄機で表面をきれいにして行く。便利な機械である。これは買って本当に良かった。自宅や病院で頻繁に使っている。あの時に(いつのことだと思います? そうです。正解です)、この洗浄機があったらどんなに助かっただろう。いったんあの徹底的な清潔さを知ってしまうと、元には戻れないのである。
 一連の作業全体に、安全用のオーバーグラスが必要である。これを掛けるだけで、何だか何かの分野の専門家になったような気分になれる。
「うおっほん、何でもわしに聞きなさい。わしが知らないことは聞くなよ」
 マスクも鼻の横に隙間を残さないように敢えて上からテープを貼って使っている。それでも咳は出る。医師の体は半分患者のものだから、養生しなければならない。長さが何十メートルもある船ではないので、それなりの能率で作業は次々と進んで行く。高校生の時の受験勉強がこんな具合に進んでいたらどんなに良かっただろう。いいっすねえ。壊す作業って日常ではまったくないからねえ。
 ここで船体を放置してしばらく自然乾燥させ、昼食を含めた3時間の休憩に入って、その後でペンキ塗り第1回に移る。風はいつものことだったが、今日の強烈な日差しは有り難い。このペースで時間に余裕が出ているのは、それぞれがまだ暗いうちに自宅や病院を出発して海岸に参集してきたからである。缶ビール換算で一人2本まで飲んでよし。それ以上は死刑!(また体を捩ってしまった。顔も大きくなって、全身も3頭身ぐらいになっている)。
 小春ちゃんは宿題を持ってきていた。目を合わせないようにし〜よおっと。(あれ、他の連中もそうしてる。汚い奴らだな、小学生の勉強ぐらい、本人から頼まれていなくても大人の自分の方から声をかけてちょっと手伝ってやれよ)。テーブルの上の細かな砂を手で払ってノートを乗せて、筆箱ならぬ手縫いの筆袋を出した。おしゃれなデザインである。母親に手伝ってもらって作ったのだが、そのことを言われると露骨に嫌がる。
「自分でデザインしたの! ほとんど自分で縫ったの!」

第132章 ある医師のうわさ、塗装開始 https://note.com/kayatan555/n/nc1519e94fd92 に続く。(全175章まであります)。

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