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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第166回 第132章 ある医師のうわさ、塗装開始

 ある医師が話しかけてきた。
「そう言えば、お前の病院にこんど新しい医者が来るんだってよ」
「俺自身が知らないのに、なんでお前が知ってんだよ」
「蛇の道は蛇って言うじゃん」
「じゃんって横浜みたいじゃん(私は横浜のあのコを一瞬思い出していた。もう会えないくせに)」
「なんでも今はケンブリッジにいるんだってよ」
「ケンブリッジったってイギリスのとボストンの隣のと二つあるぞ」
「そこまでは聞いていない」
 私はまたケンブリッジかと思っていた。アメリカで(いや、本当にネパールだったのかも知れないが)生まれたため母語は米語だが、家庭環境から、ロシア語とイディッシュ語、ヘブライ語も聞いて相当理解できたあの子の出身地だったからだ。年度末でなくても、時々医師の移動はある。一種の椅子取りゲームなのだ。だから、この話も軽く聞き流していた。
 海辺での食事ほど気楽で、かつ結果的に、というのは別に意図してやっているわけではないからなのだが、健康にもいいものはない。作業途中なので、アルコールはほんの少ししか摂取してはいけない。あっという間に3時間の休憩は終わりに近づいていた。人数分の日時計がシンクロして大小長短の影の角度を大きく変えていた。監獄でなら時報とともに自動的に懲役囚に対して午後の作業を命じる笛が鳴るのであろう。
 しかし、である。日常生活で溜まりに溜まった睡眠負債は体にこたえている。睡眠を犠牲にしないで勤務・生活できている医師は何%程度いるだろうか。ここで、もはや18歳ではない我々は疲れてしまい、予定時刻が来ているのにペンキを塗ろうとは誰も言い出さない。いったん腰を下ろすと再び立ち上がるのにしばらくかかるのだ。18歳の体力は凄まじかったのだな。あらかた浪費してしまったよ、何て愚かなオレたちよ。
 ところが、首に掛けていた、あるマンガのキャラクターのストップウォッチ(何たる凶器)を手に持った小春ちゃんが言い出してしまった。
「次は塗るんだよね、ペンキ。画用紙にチューブから出して絵の具で何か描くよりずっと面白そうって楽しみにしてきたの。私にもやらせて」
 手にはまたチョークの粉がついている。きっと再び校舎内に入って、黒板一杯にマンガを描いていたのであろう。塗装を促す目である。これは最も困った事態でござる。サボることができないでござる。大人の談合に乗ってよ、ちみも。
「あのね、もう少し休ませて」
「ダメー!」
「毎日病院で辛い仕事して、元帥のような貫禄の婦長さんにお小言を言われて、昼ご飯だって、何時になったら食べられるか分からないの」
「げんすいってデブってこと?」
「まあそんなとこだけど(よく分かったね)」
「ご飯が食べられなかったら、おかずパンをかじりながらやればいいでしょ」
(「げっ! まるでマリー・アントワネットだ。腫瘍のカラー写真患者さんに見せながら食事取れってか。医者でも気持ち悪くて吐いちゃうよ」)。
「小春が子どもだからやらせたくないんでしょ。図工も学年で1番なんだから〜わたし」
 一同絶句し、意識の中で遠い昔の小学生に戻って、正義は学級委員の側にあり、有象無象の自分たちには一分の勝ち目もないことを悟り、深く溜息をついて言った。
「優秀だね、小春ちゃん」
「ぎ案はか決しました(パカッ)」
 こうして、それぞれがそのまま眠りについても差し支えないほどの泥のような疲労がありながら、若い生命力の塊の小学生の女の子ただ1人に追い立てられて、つなぎを着たまま立ちっぱなしの塗装作業に取りかかることになってしまった。
「誰だ、あの子を連れてきたのは?」
(後ろから形成外科医フランケンの影が近付く)。
 実際にペンキを塗るのは楽しいのだが、不自然な姿勢を強いられるのは辛い。喫水線の上にマスキングテープを貼り、塗面がその上下できれいに直線で2つに分かれるように配慮する。使うのは、自己消耗型船底塗料といい、少しずつ船底表面で溶けてフジツボなどの付着を抑止するのだ。今日は1回目塗りで、一晩乾燥させてから、明日午前9時ぐらいスタートで2度目塗りを敢行する。今晩の酒の量によっては、この開始予定時刻は大いに変動しそうであった。と言って、明るくなってもグースカ寝ていれば、姫に起こされるかも知れない。
「ピーッ。自分で立てた予定はちゃんと守ってください」
(シェー)。
「誰だ、この子を連れてきたのは?」
(形成外科医フランケンが、商売道具のメスを携帯ケースから取り出して並べ始める。カチャ、カチャ)。
 今日の作業を締めくくるかのように、小春ちゃんは舷のところにKoharu Liefdeと「明認方法」を施した。そう、あのリーフデ号事件のDe Liefde(正しい発音はリーヴデ)である。この藍色のペンキで書いた女の子の文字列に、さらに赤でハートマークまで描き加えた。これで、その下にすーっと1本縦に緑の茎を描いて、さらに何枚か長い葉っぱを付け加えればチューリップみたいになるじゃん。この子の母親はオランダ人だからね。これだったら、ヨット名の投票要らなくね? すでに平穏に実力行使があったんだからね。この上だけに表面保護用の透明塗料を塗れば、明日この部分に船体全体と同じ色の2度目の塗装をしなくて済む。投票が定款通りに行われても、今回に限っては既成事実の追認ということになるだろう。何しろ誰も争うつもりはないんだから。
 やれやれ。他の大学から外語大に集中講義に来ていた先生が言っていた通りだった。
「大事な仕事をするときには最低3人で始めたほうがいいんですよ。2人だとすぐに馴れ合って妥協してしまいがちですが、3人いればその3人目が日和るのを邪魔してその計画を完遂しやすくなりますね」
(なぜか、本来の講義の内容よりもこうした話のほうが頭に残るのである。なお、この先生は授業中に黒外=Kokugaiを黒大=Kokudaiと言い間違えた。許さへんで)。
 今日の我々は、真っ暗な中必死に起き出して車でこの浜に集まって、艇の汚れを落として塗装第1回目を完了した。立派である。件の先生の主張通り、何人もいたからこうできたのだ。オレひとりだけでも、もうひとりだけ加わって2人でもたぶん、「また今度にしよう。フジツボが多少ついていたって、まあいいだろう」とでも言って作業を先延ばしにしてしまったであろうことはほぼ確実であった。
 まだ明るいが、もうあとは宴会に突入である。横に座ったり歩き回ったりして何やら何種類かに絞って食べていた小学生は、途中からくたっと眠ってしまった。フランケン、お前、こんな子が生まれて良かったな。「お嬢、明日もこうしておく方が身のためですぜ」と何人かが思ったが、口には出さなかった。仮にも医師の集団である。
 結局、このお姫様は父親と校長室に泊まることになった。他の我々は音楽室のハンモックである。こんなイモムシ扱い、差別だじょ(憲14)。それに、ひとり極端に要領の悪い奴がいるので、そもそもハンモックに乗れないのではないか。くるくる回って床に落ちまくるぞ。受身の練習か? 落ちなくても、ボンレスハムみたいにならないか。顔もストッキングを被ったようになって。ロープの部分が首に絡まったら、世界の人口がひとり分減るぞ。さらに、夜中が心配である。最低1回はトイレに行かなければならないだろう。ところが、廊下には人体解剖模型が2体も埒もない表情で我々を見詰めている。暗闇で目が赤く光ったり、ぎょろっと動いたりしたら恐怖で死にそうである。他の連中のひたいを指で連発で弾いて起こして一緒に行こうか。手をつないでスキップしながら行こうか。僕たち友だち、らんららんららんっ。生憎レモンは持ってきていない。
 (「寮雨」なるものの話を聞いたことのある人はいるだろうか。解説は避けておく。かつて学生時代に寮生活を送った経験者が身近にいたら、尋ねてみると、きっと「オレは関係なかったけど」、という断り付きで説明をしてもらえるかも知れない。戦前の学校の絵はがきには、木造寮の2階の窓あたりから放出される液体が細い滝のように見える図柄を描いたものがある。地面付近で小さな虹が出るかまでは不明である)。

第133章 夜の海辺 https://note.com/kayatan555/n/nbef64fae3273 に続く。(全175章まであります)。

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