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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第44回 第37章 クルーザーでたゆたうやり取り

 時々テレビ出演もしている数学の先生は今夜は来られない。近々単著の学参を出版するのだが、締め切り間際なのに原稿を書くのが遅いと編集者に詰られて、人生初の缶詰状態になっているのだ。(その次は瓶詰めかな? 最後は指詰めぞなもし)。横に東京生まれ育ちで、自分は正真正銘の江戸っ子の日本人だと言っているラトヴィア人のイラストレーターが控えていて、先生が原稿を1枚書き上げるたびにそれを横からかっさらってコピーし、下準備としてそのコピーの方にラフなイラストを描き足して行くのだ。この数学教師は仕事をサボっているわけではない。本業の某名門高校の教師としての職務だけでなく、仕事の総量が多過ぎるのだ。それなのに、さらにこっそりと複数の予備校の模試作成も担当している。1問毎に単価が設定されていて、解説も含めて1問いくらいくらと報酬をもらえるのだそうだ。世の中いろんな仕事があるんだねえ。明日もきっと無理だ、このマリーナにやってこられないだろう。仮に這ってやってきても、過労から簡易ベッドに崩れるように倒れて「瞬眠」してしまうだろう。春眠暁を覚えず、冬眠春まで醒めず、永眠とわに醒めず。
 まだ高い太陽の下で、セシリアは軽く揺れ続けるクルーザーの上で、ジンジャーエールに氷を入れて私に寄越しながら口を開いた。泡が盛んに弾けている。腕時計はボクと同じに右手首につけている。高校時代に今とは違う時計をそうやって右につけていたときには、口うるさい担任教師から左につけるように「指導」を受けたそうである。
「そんなこと学校の権限じゃないわ」
(ちなみに、その教師は振り子式の腕時計を愛用しており、いつでも片手で扇子を広げてそろりそろりと摺り足で校内を歩いていた。太郎冠者、太郎冠者。ウソ。トイレに向かう時は、心持ち早足になった)。
 ボクの目の前に見えているセシリアの今の時計は、超難関医学部現役合格祝いに父親からプレゼントされた真四角の機械式時計で、天然ダイヤモンドが計20個も埋め込まれている。曜日は「星期」ということばと漢数字の組み合わせで表示されている。例えば星期二なら火曜日を指す。日常的に中国語を意識するようにとのパパからの配慮によるものであった。ガラスの色は涼しげなアクアマリンで、盤面には雷の光る荒天の中を航行するヨットが描かれている。これはターナーでげすな。
 氷の塊はクマちゃんの形をしていたが、目付きと口元がちょっと歪んでいて、「そちも悪よのう、うっひっひ」という感じだった。その氷が3個、冷えたグラスの内側に不規則にぶつかって風鈴のような音を立てた。氷は間もなく超小型の漁業用浮きのように小さくなって行き、拙者の気分もうきうきとなった。
「海はいいねえ」
「そーだねー、、、」
「でもね」とセシリアは右手の華奢な指で左手首のルビーのブレスレットの位置を直しながら続けた。何だか険しい表情になっている。(何かいけないこと言ったかしら、あたし。I said something wrong?” 
「(溜息)。この国はせっかく海に囲まれているのに、こうしてクルーザーに乗っていられる人ってすごく少ないわ。私はいつも英日のふたつの国を通して世界と日本を見て生きているの。イギリスの親戚とテレビ電話で話すときは私はなかば日本人扱いされるけど、話題によっては大英帝国の味方として、話題によっては赤の他人のような目付きで見られるわ。日本で暮らしているいつもは半分外人に見られるのよ。
 私は大好きなこの国の人たちのことが歯がゆいのよ。マリンスポーツも含めて、日本人はもっと自由で豊かに生きられるのに、人生の最優先課題として毎年長期休暇が確保できるようにしたい、と決意しないで、しなくてもいい苦労を抱え続けて生きている人が多過ぎるわ。今、一番有望な職業は、AIに置き換えられる心配のなさそうないろんなスポーツのインストラクターじゃないかしら。
 考えてみて。国民全員が何週間も連続で休みが取れれば素晴らしいじゃない? 一年を日常と聖域のふたつに分けるのよ。その聖域の方では毎日ゆっくり眠られて、そのうちに蓄積疲労がすっかり抜けて、心が青空や澄み渡った月夜のようになって、きっと何かスポーツをしてみたくなって、健康になって、新しい知り合いも増えて、旅行も国内、国外どちらでも日程をゆったり取ってできて、医療費は減って、経済も発展するわ。真っ先にそういう長期連続休暇を認めるべき対象は看護師さんたちね。あの人たちがいるからこの国の人たちが命をつないでいられるのよ。うちの亡くなったおばあちゃんも、実は最後はちょっと人には言えない悲しい困った言動になってしまっていたの。それを、信じられない忍耐心で支えてくれた看護婦さんたちには、親戚以上の親しみを感じるわ。
 それに、他の国がどんどん新技術を取り入れて、対応できない企業は淘汰させて生産性を上げて国民所得を2倍、3倍にしている間に、この国の国民の所得は逆に減っているのよ。どうしてなのよ。社会のIT化もキャッシュレス化も信じられないほど遅いし。あっという間に他の国に追い抜かれてしまっているわ。いまだに一種の鎖国やってんじゃないの、この国は?
 アメリカは素晴らしい点が一杯あるけど、そのアメリカだけを出島みたいにして使っていちゃだめよ。そんな制約は取っ払ってしまって、先入観なく、もっと広く世界を見てよって言いたいわ。例えばエストニアはすごいことになっているのよ。私もあの国の電子国民になってみようかしら。エストニア法人の会社だってネット上で設立できてしまうんだって。だったら、国っていったい何なのかしらね。
 時々イギリスに行くと、深い安堵感と解決できない違和感の両方を感じるの。私にとっては、半分故国、されど異国ってところね。私は適応力が強い方だと思うけど、このambivalenceは死ぬまできっと変わらないわ。
 私はイギリスがこれからどうなるかなんて難しすぎて分からないわ。所詮ドーバー海峡より大西洋の方が狭いということかしらね。そう言えば、前に見たんだけど、アメリカ海軍はU.S. NAVYよね、ところがよ、その空母艦載機の機体に、U.S.じゃなくてTHEを使ってTHE NAVYって書いた映画があったのよ。これなら、ただ単に海軍って言ってるので、話し言葉ではむしろ自然だけど、そのまま書いちゃダメよね。あれ、何ていうタイトルの映画だったかしらね。見た瞬間に笑っちゃったわ私。ああいうアングロ・アメリカンなユーモアって、私の血にも流れているのよ。
 イギリスが世界中の国々の中で一番頼りになるのは、他の国のような成文憲法がないのに国家権力を抑制して、人権を守って、軍も統制できている点だわ。人類の最先端を歩いているのがイギリス国民なのよ。問題も多いけど、総合点ですごい強みのある国になっているわ。首相と首都の市長の両方が移民2世になっているじゃない。日本だったら総理大臣と都知事がそうなっているということでしょ。あれが多民族国家エゲレスなのよ。ノーベル賞受賞者も相当多いわね。王室ファンも世界中にいるわ。私もそうよ。私、royalって付いた組織、団体、深く信頼しちゃうわ。国の名前を付けるんじゃなくて、Royal Air Forceと名乗れる空軍を持っている国はあそこだけよ。いいえ、違ったわね。ひとつ例外を思い出したわ。オランダ空軍はKoninklijke Luchtmachtって言うんだったわ。Luchtはドイツ語のLuft。「空」(そら)の「力」で空軍。オランダという国の名前がついていない空軍。王室のあるノルウェー、スウェーデン、デンマークもそうかしら。そのイギリスだけど、あなただってあのドライブの時、赤いシートベルトをギブスのように4本してたでしょ?
(してません)。
 世界中のかなりの人間が、少なくとも潜在的に英国を亡命候補国として意識しながら生きているんじゃないかしら。深刻な問題にぶち当たったら、いざ鎌倉じゃなくて、いざ大英帝国よ。あなたも何か困ったら私と一緒に英国大使館に駆け込みましょう。その選択肢もあるってこと、忘れないでいてね。
 浄、あなたはトップエリート候補なのよ。より良く生きようといつまでも決心しない人たちに人生の邪魔をされないで、誰にも評価も感謝もされない自発的な遠慮なんかしないで、どんどん自分の能力を磨いて先に進んで行ってね。あなたがどういう努力をしても、それは間違いなく社会と世界のためになるわ。自信を持ってね。そのうち変わるかも知れないけど、あの人たちも」
(へー、親のお陰で贅沢しているだけかと思ってたら、結構日本社会のこと考えてるんだね、チミは)。

第38章 東京大学に行ってみる https://note.com/kayatan555/n/n0ead06fd2c17 に続く。(全175章まであります)。

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