見出し画像

第二十三章 40過ぎて新聞配達


 何をやっても駄目な私。この頃は本当に本当に落ち込んでいました。でも、何とか自分を変えたいと、知ったことで金をかけずにできることは何でもやろうと、早起き、掃除、内観、瞑想、ヨガ、ありがとう1万回、プラス発想、できるできる!私はできる!と唱えること、マントラ、夢や目標を書き出して眺める・・・・。

 しかし、なかなか劇的な変化は現れません。そんな時、仕事で出逢った社長が新聞配達をやっていたと3人続けて聞きました。新聞配達は以前から一度やってみたかった仕事。朝早く起き、休むことは許されず、厳しい修行のイメージがある。


 
 とにかく変わりたい。元気になりたい。目覚めたい、気づきたい、ピカッと閃きたい、雷に打たれたい、とにかく何でもイイ。刺激が欲しい。這い上がるきっかけが欲しい。

 何日は悩みましたが、自宅から近い朝日新聞大手門専売所に思い切って飛び込み、その場で採用となりました。翌日から朝4時過ぎに起き、初出社しました。

 職場は約10人で、正社員は1名。他はバイトで、中学生1人、高校生3人、意外にも社会人が半数以上を占め、おばあさんも1人いました。

 私の指導係は40代半ばくらいの人。新聞専業かバイトなのかは知りませんが、無口で淡々と仕事をこなしています。私は言われるとおり新聞をセットし、バイクの後ろに積み重ね、ゴムで留め、担当エリアを先輩と共に廻りました。戸数は120世帯。

 数日でなんとか配達する家を頭に入れ、独り立ちしました。休刊日は月に1日のみ。他は全部出なければなりません。まあバイトですから、休んだときは正社員や他の人が代わりで配達するのでしょうが、休めば迷惑がかかるのは歴然なので休めない。申し訳なくて。

しかし、やはり、朝4時過ぎに起きるのはツライ。前日は早く寝ればじきに慣れるのでしょうが、寝るのは夜10時とか11時で、睡眠時間は約5時間。キツイ。でも、やり始めたからにはせめて1カ月は続けねば。なんとか4時に起き、新聞にチラシをセットし、バイクに載せて走る。

 配るときはバイクから降りて一軒一軒郵便受けに入れていく。配りながら、俺は表向きは社長で、たまには人前で先生と呼ばれて講演もする。それがこの様だ。ざまあみやがれ。因果応報。落ちるところまで落ちたねえ。栢野さんよ。

 そう自虐的になりながらも、配達中は「ありがとう」を唱えていました。これは小林正観さんとか、様々な人が言ってますが、ありがとうを1万回言えば人生が変わると。感謝を態度で示せ。人は思考と言葉と習慣で創られる。

 ありがとうくらい言えるさと、配りながら「ありがとうございます」と唱えていてふと気づきました。毎日120世帯に配り、月のバイト代は4万3千円ほど。逆算すると、1世帯に配ると約10円になる。つまり、私は一部配ると10円、チャリンとお恵みをもらっていることになる、新聞を取ってくれているから、私は給与を頂ける。

 それまでは配ってやっている感覚があったのですが、こうして私が新聞配達できるのは、新聞をとってくれている人のおかげだと気づきました。当たり前のことだが、私にとっては大きな発見でしたね。

 ありがとうございます。新聞をつくってくれた新聞社の方々、読者、新聞記事になった人々、製紙会社、バイクメーカー、バイク屋さん、寒い日をしのげる服屋さん、こうして配れる体力を頂ける毎度の食事と材料、この福岡の街、すべてにありがとうございます。

 しかし、気づきはその程度で、他は何も変わらなかった。新聞配達中に、天の啓示か何か、ガーンという変化があるかと思ったが、何もなかった。まあ、3カ月程度ではねえ。少なくとも1年、冬の一番寒い時期も経験したかったが、やはり昼間が眠く、何かに目覚めるどころか体が辛く、仕事にならなかったので辞めた。


 
 ああ、俺は新聞配達も続かないのか、だらしないなあという気持ちもあったが、「いや、42歳にしてはよくやった。お前はえらいよ」と自分で自分を虚しく誉めましたた。


 
辞める前には徐々に慣れ、朝6時前には配達作業も終了。いつも博多港の公園で一服していました。そして、明るくなる東の空の朝焼けをじっと見つめ、朝日が昇った瞬間に「ヨシッ!オレの人生も夜明けだ!朝の来ない夜はない!ツイテルツイテル!」と、来る日も来る日も唱えました。でも、何も変わりませんでしたね。その時は。


心療内科への通院

 こうして何をやっても駄目で、またも私は心療内科へ行きました。薬の力を借りて、ガーンと目覚めることができないかと。最初にその手の医院に行ったのは、29歳の時の、大阪で仕事と結婚とが同時破綻した自爆テロの時。うつ病と診断され、薬はもらいましたが効かず、退職と婚約破棄をして、大阪から東京へ引っ越したあとには治りました。

 福岡に帰ってきてからは、最初にダイエー前の心療内科「こころのクリニック」に2カ月ほど通いました。その他は舞鶴の川上クリニック、赤坂の義家クリニックに通いました。どこも繁盛していましたね。驚くほど。ある医院の来店者は1日約50人。一人あたりの診療報酬は、例えば私の場合、保険収入も入れると約1万円ですから、単純計算で1日50万円の報酬。

そのうち、原価は薬代、看護婦代、家賃、電気代他で、診療設備のいる外科とかに比べると、極端に言えば机と椅子があればできる。おそらく、医療設備としては一番金のかからない診療科目が精神科や心療内科。わからんですが、ざっと1日30万円の粗利はあるのでは。1カ月で900万円。1年の年棒はざっと1億円。商売としてはなかなか儲かるなあと思いました。

 通院で多少困ったのは、待合室はよくある普通の歯医者みたいな共同スペースで、個別の仕切などはない。つまり、互いの顔や姿は丸見えで、知り合いがいたらバレルわけですね。

 診療内容はどうかというと、一応、問診票みたいなものを元に、「どういう症状ですか?いや、どうもやる気がなく、仕事が出来ないんです。そうですか。夜は眠れますか?はい。朝は起きれますか。はい。朝は憂鬱だが、夕方あたりからは比較的楽になれますか?はい。軽いウツですね。お薬を処方しておきますから、1週間ほど様子を見て下さい。ありがとうございます」で、診療自体は5分前後で終わり。

 4カ所の精神科・心療内科を廻ったが、親身になって深くヒヤリングをして問題解決をはかろうとする医者はいなかった。そんな暇はないのだ。後には患者がずらりと待っている。カウンセリングや相談事に時間をとられている場合ではない。

 実はこちらも問診などは必要でなく、欲しいのは薬。薬でやる気が出るのなら安いものだ。この薬。薬物中毒になる人の気持ちが少し分かる。一度飲み始めると、毎日飲まないと不安なのだ。私の場合、人生で過去5回くらい心療内科に通った時期があるが、そのうちの1回は、タイミングも良かったのか、薬の効果がきっかけで良くなった時があった。薬で脳内ホルモン、やる気の出るドーパミンかなんか知らないが、何事にもやる気が出て、仕事にプライベートに調子が良くなったことがあった。本当の快復原因は他にあったと思うのだが・・・。

 いずれにしろ、その後のウツの時、私は医院に頼りがちになったのだ。ウツだ。でもあのときと同じように、薬がこの人生の苦境を打開してくれるかもしれないと。しかし、大半は薬を飲んでも特に変化はなかった。やる気も出ないし、何も変わらない。

 私は望んだ。躁鬱のソウになりたい。気狂いでもなんでもいい。過去に何度かあった。94年のアド通時代の結婚前の躁状態、97年の角川とのケンカ時代、99年の九州ベンチャー大学の発足時。体の中からほとばしる情熱とやる気と行動力があった。しかし、俺ももう42歳から43歳になろうとしている。もう青春でもない。スポーツでは完全に引退の歳。俺も終わりかもね。何度もそう思い、でもこのままでは終わりたくない。何とか脱したいと常に藻掻いていた。

 ウツの一番の原因は、自分の天職がわからないこと、出逢っていない。私も本業である広告代理業はその頃も細々と続けていましたが、求人広告や販促広告の企画制作にはやる気が失せていました。どうもやる気が出ない。やる気がないから広告の仕事も最低限しかできないし、金はいつもギリギリで貧困生活。常に不安がある。でも先が見えない。夢を見る余裕がない。この繰り返し。

 過去に聖心美容外科とかFCC英会話とかの成功事例や、やずやの会社案内も作ったし、今をときめく成長企業ふく鮨本舗の三太郎やホームテックの一連の営業ツールも作ったが、これが俺の天職ではどうもない。違う。

 一番の理由は、こんな広告代理は他にもできる人が山ほどいる。求人広告では、営業活動では昔の20代の俺のような営業マンには勝てない。販促広告も、例えば身近な、アソシエの益田さんなんか俺より遙かに優秀だ。つまり、なんとかもがいて今の広告代理業はできるかもしれないが、これが一生の仕事にはならない。

 じゃあ、他に、何が俺に出来るのか。竹田先生は本を書けとか、講演をしろとか言うが、そんなことができるはずがない。同じ広告系コンサルの神田昌典のようになれるか。いや、コンサルとして二番煎じは嫌だし、能力は彼の方が遙かに上だ。勝てない。

 唯一、俺が人よりも自慢できるのは九州ベンチャー大学。帰郷した34歳から始めてまもなく10年目で、ほぼ毎月継続している異業種交流会は他にない。この手のヤツでは九州一、日本一かも知れない。しかし、それでは食えない。食えていない。

 ある意味ではイベント業かも知れないが、毎回4000円の参加費で、場所代の3500円を払い、通信費や講師への謝礼を差し引くと、毎月ほとんど残らないどころか赤字になることもしばしば。

 しかし、俺はこの九州ベンチャー大学をやっている時が一番楽しい。ゲスト講師の話に自分自身が感動するのはしばしばで、交流会での皆との話も面白い。「来て良かったです」、「また来ます」、「人脈が出来ました」、「人生の、仕事のヒントが得られました」、「転職のきっかけになりました」、「独立するきっかけになりました」・・・そういう声がうれしい。やっていて良かったと。今まで何度も辞めようと思ったが、その度に今回もやって良かったといつも思う。

 しかし、お金は残らない。これだけでは食えない。どうしたら食えるのか。身近な例では、ランチェスター経営の竹田先生や船井幸雄さんや田中真澄さんのようになりたい。人生系では、小林正観さんや神渡良平さんのような、弱者の人生に希望を与え、一隅を照らすような講演家、作家になりたい。

 でも、俺がコンサルタント?講演?本の出版?それは無理だ。じゃあ、何をするのだ?わからない!

この頃、やずや社長の食えなかった頃の対談CD、竹田社長が失業者で子供にビスコも買えなかった話、講演家・田中真澄さんも食えないとき、小学生の息子が「おとうさん!ボクの貯金を使ってもいいよ」と云われた講演の部分など、その他、各分野で成功した人が苦しかった時代の話CDやDVDを掻き集め、何度も何度も聴きましたね。こんな人たちも苦しい時代はあった。だから、俺も復活できると。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?