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誕生儀から葬儀まで



「誕生儀」としたが、「生儀」としたかった。
でも伝わらないかもしれないから。

そもそも言葉では何も伝わらない気がしているから。
でもできれば言葉で伝い合える生き物でいたいから。


私が矛盾しているのも加害しているのも承知の上です。
承知の上での加害なんて、と非難の対象にされても仕方のないことだということも承知の上です。


誕生儀から葬儀までを現しているんじゃないかと個人的に思ったミュージックビデオが2つありました。

いつものことながらYouTube上のものの掲載ですみません。


まず、誕生儀と私が捉えたもの。


そして、葬儀と私が捉えたもの。


※大前提として、タイトル含めこの記事で使用している「葬儀」という言葉は、たとえです。ここに引用させていただいている方々、関係者の方々の現実の葬儀ではありません。「当たり前だろ」と思っていただける方、ありがとうございます。

そして引用させていただいた大森靖子さん、ミュージックビデオの製作制作に携わった方々へ謝罪してもしきれませんが、すみません。





『きゅるきゅる』MVでは、歌詞の表示がある。

『きゅるきゅる』は、世間的には「意味のわからない」言葉。(だと思われる)。

でも世間的には意味のわからない「言葉」「言語」「言葉ではない言葉」でしかもう伝わらないような気が今の私はしている。

non-verval という言葉が自分の感覚としては近い。
でももっといい言語があるかもしれない。

共通言語なんて当てにならないと今は思ってるけど、当てになる共通言語もあるかもしれない。

いろんな意味で始まりの曲で、私個人としても大森靖子さん曲はアルバム『洗脳』から知ったので、始まり、誕生の曲。


『VAIDOKU』MVでは、歌詞の表示がない。

世間的に意味のわからない言葉は歌詞中に使われていないように私には見受けられる。

(ただ、大森靖子さんは歌詞表示がなくても発音がはっきりしていて何という日本語を言っているのかは聞き取りやすい。歌手力だと思う。)


私が『VAIDOKU』MVを「葬儀」と喩えた理由は、
再生するためには、
再生に先んじて「死」が、
再生の前にあるはずだからだ。

「死」は、いろんな意味での「死」だ。

MVでは歌詞の表示がされていないけれど、歌詞の一部を引用します。

世界中に嫌われるほどの
才能がまだ足りないんだ
大森靖子『VAIDOKU』より
私なんか 何者でもなくて 何ができる
大森靖子『VAIDOKU』より


ここから考えて、何者でもないからできることを、今、私はやってるつもり。

過去の自分を自分で殺したい。ちゃんとここで
「葬儀」をやる。

毎日儀式をやってる。伝わらなくてもやる。
死ぬまでに伝わるかどうかとかは、わからない。

あと『VAIDOKU』MVの、大森靖子さんの最後の表情が好きだ。


補足説明のために話を広げます。(補足説明として機能するかどうかはわかりません。)

世間的には下ネタに見えるようなことをこれから書きます。

限りなく神話に近い「現実」として、
ほとんどおとぎ話のような「現実」として、
私はセックスを捉えています。

その話をできるだけ手短にします。

でも心身的にこの先を見るのがつらい方、特にセックスに関してその文字を見るのもつらい方は見ない方がいいと思います。





人間がセックスをする際、実は両者とも死んでいる。
仮死状態という方が感覚的に近いか。
そのあと息を吹き返す。
再生。

下ネタとしてさまざまな媒体で、「イく」という言葉の描写がある。

カタカナで「イ」を描いてくれてありがとう、と思う。

本来、「逝く」だと私個人は考えるから。
ぼやかした方がいい。

「死ぬ」と直接描写されることもある。
それはそのまま、「死ぬ」なのでそれはそれで親切な描写であると感じる。


また話を広げる。

希死念慮を持つ人に対し、「死にたい=生きたい」という旨を話す人を見たことがある。

私も希死念慮を持つ人に対し、そのような声掛けをしたことがある。
(その話の最中「なんでそんなカウンセラーみたいなこと言うの?」と返された。専門的に学んでいないのにカウンセラーみたいなことを言ったのは私なので、真っ当な返しだ。)

「生きたい=逝きたい」でもある。でも誤解しないでほしいのは、体の死をもってしなくても、「生きたい=逝きたい」は達成できる。

身体の死を使わなくても、「逝きたい」は達成できる。
そして身体の死を使わず「逝きたい」を達成しなければ、「再生」ができない。

「逝きたい」の感覚を持つこと自体は、再生の感覚を持てる可能性しか秘めていない。

ひととおり「逝きたい」をやったあと、再生ボタンを押すのはほかでもなく自分自身であることは忘れてはいけないと思う。

往ったあと、征ったあと、帰ってこない人もいる。
たとえば戦争。そういう社会的背景があった。

往きの燃料しか積まず、特攻へ飛び立った人たちがいる。
復路はなかった。

自然災害は人災の側面も捨てきれない。

希死念慮に関しては、再生ボタンが用意されている。
かろうじて。



話を限りなく神話に近い「現実」に戻す。(でも自分の中ではつながってるのだけど)


セックスは、両者がお互い「この人なら道連れにして死んでもいい」と認識しあっている上で、やる方がいいと思う。

セックスは、殺し合いであることを認識しておいた方が、将来のためになると個人的には考えている。


息が詰まりそうなので、明るい話に転換することを試みたい。


セックスという、
セックスをする両者の「死」を経て、新しい命が誕生する。

これが「現実」だとは。という驚きが私の中にはある。

これが身体の現実だとは。

一番の神秘は身体の中にある。


新しい命の誕生を望むわけではなく、「再生」だけを望む両者は、適切な避妊、性感染症予防をしようという話です。

「避妊」という言葉がしっくりこない人でも、性感染症というリスクはどの人にもあるはず。

説教くさいですかね。皮肉なことに教師体質です。


そして「今」存在している子どもに関して。

子どもから「なんで産んだんだ、頼んでない」という言葉を投げかけられたとき。

「あんたがいちばん泳いだんでしょ、あんたが数億のライバルを蹴散らして、あんたが一番はしゃいでたんでしょ」

という旨の言葉を子どもに対して投げ返すなら、筋違いだと考える。

子どもはその時着床していない。ですよね。

どこからを「子どもの誕生」としますか。

どこからを「存在」と認めますか。


子どもの反抗期、保護者はきつい。
子どももきつい。

反抗期を公衆の面前(SNS含む)で見せしめにするようなことはやめてほしい。

子どもを見せしめにするようなことはやめてほしい。


今度こそ明るい話に転換したい。

「今」存在する人たちが、「なぜ生まれてきたんだ」なんて思わない世の中のシステムになってほしい。

そのために現実でできる、目の前のことをしたいし、一応、しているつもりではある。


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