2023.12.4-きょうのはなし
わたしはいま、イギリスにいる。イギリスという国に来るまで知らなかったのだけれど、ここは日本に比べてずいぶんと涼しい。秋がない、と日本ではよく言われるけれど、それに比べたらイギリスは9月のなかごろにわたしが到着してからつい最近まで、ずっと秋だった。暑いなと感じるとすればそれは、室内の暖房のきつさによるものだったりする。寒いと気分がすっきりするから、わたしは寒い方がすき。
ずっと秋だったイギリスが、冬になった。季節は行きつ戻りつして変わっていくものだと思っていたら、そうではなく、ああ今日から冬になった、という瞬間を目撃したのだった。
一週間くらい前のこと。空気が重くどんよりとして、寒さの中にあるすっきりさみたいなものはなりを潜めて、煙っていく空気の中に冬のはじまりを見た。そこから瞬く間に寒さはきびしく(文字通り、厳しい感じがするのだ)なっていき、ついにはコンクリートの地面は凍ってしまった。そっと吐いた息がしろく、こまかく凍るのが見えた。冬が来た。
せっかく留学に来たんだから、と英語漬けの生活をすすめてくるひとはいるし、実際その方が英語の上達は速いのだろうけれど、わたしをかたちづくるものは今も昔も日本語とその背景にある文化/カルチャーで、切り離せない。
だから、と開き直るように日本語の本は変わらず読んでいる。きょうは内田樹「ためらいの倫理学」をkindleで読んだ。
人はより善く生きるために、その方法を長いこと探って、それを学問にしてしまった。それが倫理学。そのこと自体、なんだか面白いよね。
この本は学術書とエッセイの中間のような本で、戦争とフェミニズムについて内田先生の個人的ともいえる見解が書いてある。これがいま読むと、興味深い。特に戦争についての意見を表明するときにわたしたちはどうすればいいのか、ということについての内田先生の考えは個人的にしっくりくる。
詳しくは、そして正確なことは本を読んでほしいのだが、つまりは絶対的な正しさなどないということをくりかえし伝えている。
マジで耳タコなぐらい聞いてきたよ、と思われるかもだけど、
こと戦争になると、なぜか私たちはこれを見失い、ひとりのひと、ひとつの国家にその非を負わせようとする。無辜のひとの命が喪われるということに、わたしたちはやるせなさをおぼえる。ついついその「なにもできない」やるせなさは「原因」を追究し、糾弾する方向へむかう。それは他国で起こった戦争でも、自国が過去関わった戦争の「責任を果たす」文脈でも。それは、そのひとが戦争の事実に向き合った結果なのかもしれない。しかし。
現実には、戦争はその背景を考えると「誰が始めた」ものではなく、国同士のレベルでは被害者も加害者もない。
事実としてはあらゆる場所で、あらゆるひとのひとつひとつの命が喪われていくという事実、それだけだ。(政治的な意味合いは除いて)
喪われてしまった命の果ての死が究極的には無意味であることはとてもかなしい。かなしい。だが、死は本質的に無意味だ。でも、生きる権利は誰にでもあるはずなのだ。
亡くなってしまった無数の彼らが自分のために生き、生きるということを奪われたことに対して、ほんとうに苦しいし、怒りさえ感じるけれど
強烈な、どうしようもない怒りを正義感の衣でくるみ、声高に責任を追及する意見を語るのは危険だ。それはにせものの正しさなのかもなあと自分を省みてもおもう。戦争に限らず、人間関係にもいえるような。
これもまた、ひとつの意見のような気がする。うーむ。
天気のはなしに戻る。イギリス人は天気のはなしが好きなのもうなずけるぐらい、イギリスの天気は変わりやすい。15分おきに違う天気になる。ちなみにベースはくもりなので、晴れている日のありがたさが、青空が心身に沁みる。そういうときは空を見ながら歩く。はたから見たらあほに見えるだろうけど、わたしはけっこうたのしい。空が青いだけでたのしいなんて、いい人生だなあとおもう。寒いけどあと少し、散歩ができそう。
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