見出し画像

「矢野顕子ばかり流すカフェ」

吉祥寺にある大学に通っていたときのはなし。
そのころのわたしはいつも何かが不安定で、全てがこわくて、でも寂しくて、よるべない気持ちを弄ぶように街を歩いていた。

思春期の終わりかけ、
コーヒーの愉しみに目覚めたのはそんなときだった。
頭で考え、悩んで、悩み疲れてしまったのだろう。五感を使う飲みものに夢中になった。 
コーヒーって、おもしろい。

気温、湿度、気分、湯温、誰が淹れたか、あらゆる変数が影響し、同じ豆でもひとつとして同じコーヒーは無い。ひとくち、ひとくちと飲むたびに味は色を変えていく。不意にこぼれ落ちる宝石のように、味はゆらめいて消える。わたしは、味覚を通じて感じる、儚く消える美しさが好きだった。
舌だけでなく、からだをつかってぼんやりした味の輪郭をなぞる。まさに「体験」。そして、頭のなかで、漠然とした美味しい、を具体的な言葉に置き換える。どう美味しいのか、なぜ美味しいと感じたのか。ゆっくりと五感と思考を往復する時間がわたしにとっての幸せだった。

そんなふうにコーヒーに取り憑かれ、その魅力にもっと浸かるようになればもう、カフェと呼ばれる場所のことが好きになるのは必然だった。
吉祥寺駅前の、猥雑な通りの地下に扉を持つその店は、いつも暗くて、煙草の匂いがする。バーカウンターと、テーブル席がちょっと。10人入るかどうか。無造作に積み上げられたメニューがカウンターに積まれている。マスターは白髪を後ろでまとめた、まるで千と千尋の釜爺みたいな容貌。緊張が、足の運びを重くする。マスターが作る秩序のなかに入り込むわたしという異物。静かな店内の空いているところに座る。静かにとどまって、すこし澱んだ空気に自らが混じるのを待つ。

縦長のメニューを開くと、コーヒー類が充実している。ドリップコーヒーはない。
目につくのは、コンパナ、という飲みもの。何やら聞き慣れないが、エスプレッソにホイップクリームを載せたものらしい。でかでかとおすすめされている。

しばらく通ううち、お店に対する信頼ーほんとうに、何を食べても、飲んでも、いつも美味しいーが育まれていった。その美味しさも、飛び抜けているわけではないものの、なぜか実家のようなあたたかさがあるのだ。
いつも美味しい、は簡単なようで、とっても難しい。ブレや手抜きはすぐバレる。これは自分が飲食業の端くれにいるからこそ、痛感していることでもある。

そんなお店のドリンクメニューでおすすめされている
エスプレッソコンパナを試さない理由はない。

きっと美味しいんだろうな、を精一杯の保険にして、注文してみる。すこしして運ばれてきたのは、デミタスカップにクリームがこんもりと盛られた、実にキュートな見た目をしたものだった。

クリームとエスプレッソを別々に飲んでください、とメニューには書いてある。せっかくなら、と素直に従う。生クリームをティースプーンで掬い、口に入れる。甘くて、優しくて、これだけでなんか「いい」。なんで生クリームって食べると否応なく幸福感を感じてしまうのだろう、などと考えつつ、次はエスプレッソを。
そろそろとカップに口をつける、とひやっとしたクリームが上唇に当たる。あたたかいエスプレッソが流れ込み、クリームの冷たさと混じって人肌になっていく、ほんのりと甘く、しっかり苦いが、えぐみはない。べっこう飴のような、とろりとした甘さがエスプレッソ自体に含まれている。
あれ、もしかして、とても美味しい。

クリーム、エスプレッソ、クリーム、エスプレッソの反復横跳びが止まらない。幸福2倍。こんな小さいカップで、なんと大きな満足感だろう。そして、のこり半分近くになったら、いよいよ混ぜて飲むタイミングだ。ティースプーンを思い切って回す。瞬く間にクリームの白から均一な茶色になった液体を口に入れると、それはそれで素晴らしい。甘くて、苦い。ああ、幸せ。冷静な顔を装いながら、本を読む手を止めてエスプレッソコンパナに夢中になってしまうのを止められない。

ふと我に返ったら、店内ではBGMに矢野顕子が流れ続けている。というか、この店で矢野顕子以外が流れているところを聴いたことがない。
特徴的な歌声で満たされる店内。ほっこり美味しいフードと素晴らしいドリンク。なんていうことだ。すごいお店だ。

マスターは誰が来ても態度を変えない。声のトーンも変わらない。どっしりと、巨木のようだ、と思う。
伝わるのは、優しさとプロとしての確かな仕事ぶり、店の在り方。そして矢野顕子しか流さないという、強い意志。ふふ。

そんなお店がすごく好きで居心地がいい。わたしにエスプレッソと、エスプレッソコンパナの美味しさを教えてくれたお店。とにかく、格好いい。

名残惜しくも残り少ない液面を眺める。くるくるとティースプーンを回しつつ、最後まで楽しむことに集中する。

今度はいつ来れるかしら。いつかは分からずとも、また近いうちに。お店と、自分と指切りして店を出る。華やぐ吉祥寺の街を背に、帰途につく。
イヤホンで矢野顕子を聴きながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?