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苛烈な「好き」を抱えて生きることのこわさとは


強烈に何かを好きでいることというのは、その存在のきらめきに釘付けられて自分の目を刺されるような感覚で、そのことを端的に「恋は盲目」という。

何かを好きになる瞬間は人生においてかなり美しい瞬間ではないだろうか。からだに電流が走るみたいに自分が対象を「好き」だと自覚して、坂を転がり落ちるように夢中になる。

その瞬間に孤独ってなくなるような気がする。あくまでなくなるような「気がする」だけなのだけれど。

魅せられてその場から動けない、動きたくないような。もの、ひと、なんでもいい。何かをどうしようもなく好きであることは、自分の判断を狂わせ、理性を超えてしまう。

理性を超えるばかりか、視野は狭くなり、それなしでは生活は成り立たなくなる。

こういう好き、を抱えるタイプとそうではないタイプに人間は大きく二分される。こういう好きを抱えない人にとっては、私が話す劇場的な、しっちゃかめっちゃかな「好き」はまったくなんのことやら見当がつかないだろう。私にとって「好き」はほぼ災害だ。

こういう好きを抱えながら生きるというのは、まさに盲目のなかで歩くのと同じだ。ただ、この場合は盲目になって「しまう」というより、あらゆることにあえて盲目に「なる」ために強烈に好きになるような気もする。

私の場合も、唯一の光は「好き」の対象だった。
好きであることを灯台のようにして生きていた。

あくまで私の場合の話だ。
だけど、あらゆるラブソングがあなたさえいればほかには何もいらない、と歌う理由のような気もする。

強い「好き」という感情が没頭につながる。没頭は、自分を滅する行為だ。自分を忘れられるともいえる。

私にとっては好きなもの、たとえばアイドルや、本や、コーヒー、ラジオはいつだって苦しいことの方が多いこの場所から抜け出す手段だった。

ずっと好きでいられるのなら、好きだと思った対象しか見られない。この人生の希望はその対象に紐づいていて、それを通して希望を感じることが唯一人生を素晴らしく感じる瞬間。
その感覚は一種の信仰に似た何かなのかもしれない。その存在さえ信じていれば私の存在も大丈夫という。

小説「推し、燃ゆ」で主人公が言っていた。
推すことはわたしの背骨だと。

背骨。

大森靖子は君を太陽にして無理やり起きてると(非国民的ヒーロー)、世界だって君にあげる(ミッドナイト清純異性交遊)と歌った。そう、そういう破滅的な「好き」のはなしである。そういう感じに身に覚えがなければ、ふーんって思って眺めてほしい。


そういう好きを抱えている人間は、時になぜか羨ましがられるのだけれど、苛烈な光の眩しさは心身の消耗に繋がる。そして、好きであれば自分の人生の辛さを忘れ、不条理から抜け出せるはずだと蜘蛛の糸のように好きを手繰っていったその先は何もなく、ただ盲目の自分がいるだということにもなりかねない。



赤坂真理の「安全に狂う方法」というアルコール依存をテーマとした本のなかで、あらゆる依存性のもととなるのは、なにかへの「固着」であるという記述がある。固着はあらゆるものに適用され、自らの思考に対する依存も含む。そしてそれが一番頑固だともいう。心のなかの固着、それが依存のはじまりであり、正体だという。(面白いのでこの本はおすすめ)

好きな対象をちゃんと自分の目で見られないと、好きの内実が透明化していくのだ。「好き」であればあるほど、精神は「好き」な対象物と固着していき、何かを好きである自分に依存するようになる。

「好き」に自分が殺されていく。

自分の目で見る、とは。好きを好きのままでい続けるには、どうすればいいだろう。
その答えのひとつは、生きる希望として対象を過度に美化しないこと、好きなもので自分を説明しないことだ。

わたしは今イギリスという国にいる。いま書いていることは、異国にいることで今までの自分からは隔絶されて気づいたことの覚え書きのようなものである。

あらゆる好きだったものから切り離された。言語、コーヒー、好きな場所、愛着のあるすべて。日本語を摂取し、話すことが好きだった自分が、あらゆることが英語でつくられる世界に来たことも大きい。

それは大きな意味で自分を構成した/育てた「親」から離れるということだ。振り返るとほんとうの意味で孤独を感じるプロセスだった。自分が自分であることしか、自分という存在を証明する方法がないのだ。あたりまえのことを書いているように思うだろうか。

でも、自分という人間のことを自分の強く関わってきた物事(仕事、趣味、嗜好)によって説明する態度は珍しくないとも思う。だからこそ、この話はそこまで特異な話ではない。退職してから鬱になる人とかもこのケースだろうと思う。

大事なのは、自分は何によって自分を規定するかだ。そして、自分は何に希望を持つかでもある。

どうやら私は私自身で作りだすべき、生きるための最低限の希望のようなものを外部から取り込むことで生きてきたという事実だった。わたしは自分の「好き」に固着することで自らの目を刺し、盲目でい続けてきた。

そうやって借りものの希望を反射させた光を頼りに生きてきた。

ここで言いたいのは好きなひとやものを希望にして生きるのが悪い、ということではない。むしろ、それで生活が豊かになるのであればそれでよいと思う。ただ、それだけで担保した自分の存在はいつまでも脆い。自分が自分である、ということが他人事のまま人生が運営されている感覚のまま生きてしまうから。


外側だけに希望を持つのは危険だと、遅く遅くようやく気づいた。

自分を「好き」に依存させないためには、希望は自らの外側にだけあるわけではないと信じるのがよいだろう。希望は手作りできないだろうか。自分の力で生きることを楽しめないだろうか。

自らの孤独を埋めようとするために「好き」を使っていなかったか。

結局、自分の世界を暗くしたのは自分自身ではないのか。
暗い世界にある少しの希望は、実は可変性のある私自身ではないのか。どこまでだって変わることができる自分が希望的な存在だ。


結局これは自己肯定感の話につながるのだと思う。
自己肯定感、という言葉がずっと理解できなかったのだけれど、つまりは自分に対してやわらかく希望を持って生きることが自己の肯定なのだろうと思う。

あなたは希望で、私も希望で。
社会に希望を感じられなくとも、自分自身が小さな希望だと言い張って生きていくことこそが自立的に生きることかもしれない。

そんなことに気づいたよ、っていう話。

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