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#1 怖いもの知らず。

「本当に、カフェ、やるんですよね?」
そう言われた日の光景を、15年経った今でも鮮明に覚えている。
当初のカフェ開業計画に携わってくれた、元スタッフの子の言葉だ。
あれは確か春ぐらいの季節で、カフェの企画書を持ってオーナーさんにプレゼンしに行く途中の、日差しが眩しく照り返す歩道橋の上だった。

その投げかけは、僕の覚悟を確認するものだった。

思い返せば全ての始まりは会社員時代に提案した、とある案件についてのカフェ企画からだと思う。
当時僕は、ランドスケープ・コンサルタントという業種に身を置き、緑や自然に関する全てのモノやコトに対して調査・企画・設計・マネジメントする仕事をしていた。つまり、案件の一から百まで全てをコンサルティングすることで、常に全体像を俯瞰しながらモノやコトをつくりあげていく。
業務の大半は公共事業だったけれど、民間発注も含め規模の大きな公園緑地から街角の小さなポケットパーク・高速道路の法面緑化・ニュータウンの緑地計画・里山里地の保全・環境共生や循環をコンセプトにした緑地のあり方検討など、分野は多岐に渡っていたし魅力的な仕事が多かった。

僕が在籍していた会社は、まさに設計デザインの職人集団みたいなところで、変わり者も多くて金髪茶髪は当たり前。服装の規定も緩く普段着がベースだった。そして、そこら中で上下の立場関係なく怒鳴り合いや殴り合いがオフィス内で毎日のように起きていたし、クライアントとの打ち合わせでも担当者に食ってかかるようなことも日常茶飯事だった。

その社員たちを象徴するかのように、当時の社長さんは瞬間湯沸かし器みたいな性格でありながらもユーモアに満ちたキャラで、ランドスケープの業界ではかなり前衛的な考えを持っている人で、随分と僕はその姿勢に影響された。

「クライアントに言われたままをやるのではなく、常に“私はこう解釈した”というプランを用意しろ」が社長さんの口癖で、それは今だに僕の仕事に対する姿勢のバックボーンになっている。また、当時配属された部署では、いち早く「自然」「共生」「循環」などのキーワードに特化したプランづくりを提案するなど、先進的な案件に取り組んでいた。それが今の僕のランドスケープデザインという仕事の基礎的な知識・技術になっているのだ。

そんな職場で刺激的で充実した日々を過ごしていたわけだけど、僕は入社してからずっと“いつの日にか独り立ちしたい”という願望を持ち続けていた。
独立への思い、それは大学の建築学科に身を置いていた4回生だった頃、不景気の煽りで就職超氷河期の始まりをまともに喰らったことに始まる。

その頃は、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件などが立て続けに起こった年で、世相的にかなり不安定だった時代だったのを記憶している。
僕が通っていた大学は、建築業界ではそこそこ有名な大学で、比較的ゼネコンや大手の建築事務所に毎年スムーズに就職できるという実績があったし、僕たちも何となくその流れに乗るのだと楽観的に思っていた。
だが実際には、そのハシゴは見事に外されてしまった。
多くの企業や建築事務所は、その年から学部卒を採用しない方針に一転、代わりに院卒など即戦力になる学生を求めるようになっていた。僕には大学院に進むだけの成績も残していなかったので、なんとか就職するしかなかったのだ。
実際の就職活動では、僕自身の成績がイマイチぱっとしていなかったのと、なぜか自分のデザイン力を過信していたこともあって大苦戦することになる。最初は建築の分野で東京方面を目標にしていたのだけれど、どこにも採用してもらえず、途方に暮れて新宿の副都心で涙したことは今でも覚えている。
結局、当時のゼミで多く取り扱っていたのがたまたま「日本庭園」ということもあって、ゼミの教授から建築だけでなく「外構を設計する」面白さを教えてもらったのと、もともと自然が好きで課題作品にも多く木々や草花を取り入れてたこともあって、ランドスケープ・アーキテクト(デザイン)の分野を新たに選択することになったのである。そしてようやく最後に採用してもらったのが名物社長のいる、その会社だったのだ。

話を戻すと、こういった時代背景もあって、敷かれたレールなんてものはどこにもなく、自分だけの力で生きていかないといけない時代になってしまったことを感じていた。だからやっとの思いで就職しても、生涯雇用なんて幻想は抱かなかった。
会社や社会で起きる何かに振り回されるのは嫌だったし、何より自分の人生に後悔したくなかった。
その頃の周りの友達や会社の同期たちも、なんとなく同じように社会の動きに対して冷めた視線を持っていて、それぞれが危機感みたいなのを感じて自分なりの考えみたいなものを持とうとしていたように思う。
そういったこともあって、ある程度経験と実績を積み重ねた歳になってから、会社を辞めようとタイミングを見計らっていたのだけれど、就職して8年目、前述したカフェ企画提案が退職を決意する後押しになったのは、自分でも驚くほど自然な流れだったように思う。

そのカフェ企画提案は、日本庭園の新しい活用方法についての業務だった。
奈良県は、長い歴史の中で実に多くの数の日本庭園を遺している。文化財的に保存されているものもあれば、観光名所になっているものもあるのだけど、中には何かしらの理由で管理が行き届かず放置されている(あるいは所有者不明の)庭園も数多くある。
業務では、その放置庭園を活用した企画提案を求められ、僕はその頃流行り出した「カフェ」による活用を提案をした。
奈良県らしく万葉の植物に囲まれた庭園の中で、その植物を素材とした飲食メニューを提供して、万葉文化の発信拠点になるような展示やイベント、ワークショップなどを行う「場」にリノベする内容だった。(今でもその資料は大事に取っているのだ)
ヨモギやフキを使った天ぷら料理や和え物や、梅や木苺のシロップソーダなどで飲食メニューを提供。ベニバナやショウブを使った草木染めワークショップ、ヒルガオやニリンソウを使ったアートフラワーづくりなどを開催。周辺住民のみなさんで万葉の植物を題材にした写真展を企画し、万葉の植物がふんだんに植栽されている庭園をみんなでワークショップがてらに管理し、その中で行われる大人な音楽ライブを楽しむ - そんな企画だった。

また、周辺にあった興福寺などへの一般的な観光に加え、生活文化を伝える新しい場をつくることにより観光の裾野を広げていくことも、この企画の目的としていたのだ。
2000年代前半に増え始めた「カフェ」は大箱の店舗が多く、飲食メニューが中心でたまに音楽ライブが行われる程度のところが多かった。実際に、僕も会社の同僚とよく遊びに行ったりしてたのだけど、もっと地域に、そして日常生活に近い「カフェ」があってもいいのではないか?とずっと個人的に思っていたのを、たまたまその企画にぶつけてみた形だ。
今では当たり前になっている、“「カフェ」を「場」として運用する”提案は、当時にしては我ながら思い切ったアイデアだったと思う。
その企画に対する県の担当の方の反応がどうだったかすっかり忘れてしまったけれど、僕は企画を提案している自分自身に対して妙に興奮してしまい、挙げ句の果てに「あ、これ、自分でやりたい。」と強く思うようになってしまったのだ。

そして入社8年目の30歳を機に退職。ちょうど、ソニーがベータ(ビデオ)の生産を終了したり、多くの大企業同士が経営統合したりした時期で、勝手に自分の中で一つの時代が終わりを迎えたような気分になっていたのも、大きな流れだったような気がする。
小さなものは捨てられて、大きなものだけ残っていく。全てが先細りになっているように思えて、そんな生きていく窮屈さみたいなのを、何となく感じ始めていた。

当然、「ランドスケープ」している人間が「カフェ」をする、なんて発想は理解されないことが多かった。当時付き合っていた彼女なんかは、不安を抱いて僕の元から去ってしまった。(彼女との結婚を見据えたのが起業のモチベーションだったんだけどね)
当時働いていた会社の社長さんだけは理解を示してくれて、結構引き止められたりはしたけど、最終的には快く退職を許してくれた。
ただ、大概の人たちは「なぜ?」と疑問を抱いていたようだ。実際うちの親には何度も説明した記憶があるのだけど、多分今でもぼんやりにしか理解してもらっていないと思う。
でも自分の中ではこれからの時代、緑や自然といったものがニーズとして確実に求められるだろうし、消費者自身もそれらを管理したり活用するノウハウを持つことになるだろうと思い、それらを学べる「場」が必要だと直感的に感じていた。
それもこれも、「真剣に地球をどうにしかしたい」という想いを柄にもなく強く持っていたからで、方法は奈良県の企画とは違えど、考え方は同じだと自分の中では整理が出来ていたのだ。
きっかけ(導入部)としての飲食メニュー。そしてそこで発信(もしくはストック)される緑に関する知識やノウハウ。そしてそれらを活用した地域に対するハードとソフトのデザイン。
その場所がたまたま「カフェ」という形態であっただけで、僕的には「オフィス」であることに変わりはなかったのだ。

さて当然の話だけど、「カフェ」という形態を取っている以上、飲食産業の一つとしていろんな手続き上は見られるわけで、そこら辺のノウハウといったら、全く持ち合わせていなかった。
メニューの内容や価格設定、オペレーションや人員配置も、全て学生時代にバーでバイトをしていた時の経験だけが頼りで、拙い計画書を書いては書き直し、オーナーさんと何度も打ち合わせたり、知人を招いて試食会を開いたり、とにかく出来ることを全部やった。
今見返してみると、かなり甘ちゃんな企画内容だったけれども、その頃はそれがベストな企画だと考えていたと思う。当時、カフェスクールなるものも流行っていたけど、そんなものは時間と費用の無駄だと思っていたので、全て我流でこなした。
住み慣れた街・神戸での物件探しも難航した記憶があって、その地域によって家賃の相場が全然違うのでかなり迷うことになる。ただ僕たちが想定したターゲット層やメニュー内容は、やはりそれなりの需要がある地域を対象にしていたので、家賃の価格はある程度覚悟することにして、建物のスペックや使用条件などに妥協はしないことに決めた。理想を求めて探した物件は、実に50件近くにのぼった。

そして約半年後に見つかった物件が、第一号店になるわけだけど、これが本当に贅沢な物件だった。
物件の場所は神戸のJR摂津本山駅南口改札から徒歩数分、新築一軒家の1階部分でオシャレなコンクリート打ちっ放し。入り口側半分の天井は5mと高く、さらに面積も30坪程度あって、想いを叶えるには十分すぎる広さだった。
物件の家主さんは若い方で、その建物の2階に住まわれていた。僕たちがやろうとしている「カフェ」の考えに共感してくれたおかげで、契約交渉はスムーズに進み、当初提示されていた家賃よりかなり値引いてもらった。(それでも、坪単価2万円以上したのだけど…)
とはいえ、家賃同様これらにかかってくるであろう毎月の光熱費や人件費などをやりくるするための資金計画に、この先ずっと頭を悩まされることになるのだけれども。
新規で飲食業に参入するには、自分たちの身の丈を遥かに超えたキャパやスペックの物件を前に、なぜかしら当時の僕は「怖いもの知らず」の状態で、不安視は全然していなかった。

成功することしか考えてなかったのだから、若さって恐ろしいものだ。

こうして退職してから2年の時を経て、ようやく自分たちの城を持つことになったのである。

「この人、大丈夫かしら?」
と、僕の奥さん(その時はただの女友達だった)は、僕が誘った大阪にあるgraphというイケてるカフェでマルゲリータを食べながらカフェづくりの話をしていた時に思っていたらしい。

話は少し戻って、2005年にミドリカフェがオープンする2年前くらい。
その頃の僕は、退職する数年前から付き合っていた彼女にフラれたばかりで、かなり精神的に病んでいるように見えたのかもしれない。いや、たぶんどこか実際におかしかったに違いない。
そのフラれた彼女には、退職することもカフェを始めることも予め伝えていて、僕の中では“自分の力で彼女を食べさせていく”ことを一つの目標としていたし、それがその頃のモチベーションになっていた。
カフェが実際にオープンするまでは、事業計画を考えるのと並行して、もちろん食べていくための仕事もした。主に前の会社の下請けをしたり、同業者から仕事を廻してもらったり。スズメの涙ほどの退職金と合わせてなんとか暮らしていたけれど、毎日の仕事はハードそのものだった。

その頃の僕は「結果が全て」だと考えていたのだけど、彼女からしてみれば「過程を共有することが大事」だったのだろう。まだ携帯電話のメールが140文字しか打てず、今では当たり前のSNSも無かった頃に、僕から頻繁に連絡をとることをしなかった。
不安を抱いた彼女は働いていた職場の妻子ある上司に相談するようになり、結果その上司のことを好きになってしまい、ある日突然僕に別れを告げたのだ。その時の僕の混乱具合といったら、それはそれは凄まじかった!
今となってはそれが本当かどうか確かめようもないのだけど、彼女の周りにいた共通の友達がその日を境に全員彼女側に付き、取り繕う間も無く僕は誰からも相手をされず路頭に迷うことになる。やがて少しばかり人間不信に陥り、実家に戻って一から全部やり直そうと考え始めた。

でも結局「結果」で見返すことが唯一の抵抗だと考えた僕は、そのまま神戸に残ってカフェの企画を日々めげずにこなしていたのだ。

その頃の僕の生活といったら酷いものだった。毎日ファーストフードや宅配、コンビニ弁当が食事の基本メニューで、毎日のように酒を浴びるように飲んでいて、フラれてからは通っていたジムも辞めて、デスクに向かうか二日酔いに苦しんで寝てばかりいた。やがて肌はカサカサになり、体は痩せ劣り、顔色は白く頰もこけ、髪の毛も両目がすっぽり被れるくらいまで伸びて、どう見てもまともな30歳には見えなかった。悪いことが一つ起これば、さらに悪いことが起きる負の連鎖がずっと続いていて(ここで書けないこともたくさんあって)、今の奥さんに会った時は、実にいろんなものを引きずっている最中だった。
だからそんなボロ雑巾のような僕が、今の奥さんに出会えたことは奇跡と言うしかない。「うち(実家)にご飯食べにきたら?」と声を掛けられた時は本当に嬉しかったし、実際にお義母さんの手料理をいただいて、「食」の大切さを痛感して涙しそうになった。なんでもないブリの塩焼きと豚汁が初めていただいたご飯だったと思う。家庭料理のあたたかさが身にしみて感動した僕は、カフェでもこういった料理メニューを中心にしようと思ったのである。
少々込み入った話ではあるのだけど、その当時奥さんには彼氏さんが別にいて、そんな状況でも僕を受け入れてくれたことについて、本当に男前だなと今でも感謝の念が尽きない。
結局、彼氏さんがいる女性の実家にご飯を食べに通い続けることに、さすがにケジメをつけないといけないだろうということになり、彼氏さんとは別れてもらって僕と付き合うことになったのは、たぶん出会って半年を過ぎたくらいだと思う。それはミドリカフェをオープンする1年前くらいの事だった。
そんな中で僕の口から出たカフェの話。「この人、頭大丈夫かしら?」と思うのも当たり前なのである。

そんな経緯もありながら、トータルで約2年をかけて企画づくりや物件探し、内装デザインなどを行い、最終的に形がまとまったのは2005年の春頃。(その頃挫折せずにワガママな企画に付き合っていただいたオーナーさんには、本当に感謝しかないです)
カフェの内容としては、本職である造園・ランドスケープとしてのデザインオフィスを中心に、応接室兼ショウルームとしてのカフェスペースを設けるという基本構成。飲食メニューは旬の野菜や果物を楽しめる家庭料理(プレートランチとホットサンド)とフェアトレードのコーヒーや自家製果実シロップのソーダなどを中心としたもので、飲食をきっかけに家庭菜園を庭に取り入れてもらうこと、そしてそういった取り組みが街中のあちらこちらに展開することをイメージし、このカフェがそういった緑化や庭づくりの情報・知識の発信拠点になることを目標とした。まさに、奈良の案件で提案した方向性に沿った形で。

内装は、入口から近く天井の高い半分のスペースを客席に、半分奥のスペースをカウンターを中心としたちょっとした客席と、さらにその半分を事務所スペースに当てた。ちょっとしたライブやイベントなどが開催しやすいように、客席の移動をスムーズにするため全体的に作り込まないようにした。
入口と連なる天井高5メートルの壁は全部窓にしていたため、北向きの物件にも関わらず日当たりは抜群だったので、インテリアとしての観葉植物もふんだんに配した内装は、まさに「ミドリカフェ」の初期イメージの象徴だったように思う。
内装工事の時には、テクニカルな設備工事は近所の工務店さんにお願いし、他の什器類は前の会社で働いていた工作や日曜大工が好きな同僚たちにも手伝ってもらいながら、自分たちでほぼつくりあげた。椅子やテーブルなどは、近所のアンティーク家具ショップで仕入れ、食器類はオシャレでシンプルなデザインを得意とするメーカーのものに統一し、色とりどりの食材が映えるように考えた。内装のテイストは「木材と白と緑」。家具類や床材は木材を基調として、壁や天井はオフホワイトの塗装とし、緑の植物が映えるような空間デザインを施した。

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そして内装工事と並行して、カフェのメニュー表作りやポップ、ショップカードなどの作業も奥さんに手伝ってもらいながら進め、それはそれは寝不足な日々が2ヶ月ほど続いた。
ちなみにその頃の奥さんは大阪で実家暮らし。印刷物のレイアウトデザインの仕事をしていて、カフェづくりには直接的に関わっていなかったのだ。
そんなこんなで、準備にかなりの時間を費やしたにも関わらず、直前になってあれもこれも間に合わない事態が笑ってしまうほど出てくることになるのだけど、何よりもショッキングだったのは、企画段階から関わってくれていて、調理のメインスタッフだった子の妊娠が発覚したことだ。
伝えられたのは、オープン予定の一週間くらいだったと思う。突然カフェの仕事ができなくなりましたと告げられた僕たちは、急遽スタッフを募集しないといけない羽目になり、臨時スタッフとして今の奥さんも巻き込むことになってしまった。
まあ、妊娠自体はおめでたいことではあるのだけど、時期が時期だけにかなり複雑な心境で動揺したのを覚えている。しかもそんな大切なことを、直接僕たちに告げに来たのが、酒を飲んで酔っぱった状態の旦那さんだったからね。

春の歩道橋の上で言われた「本当に、カフェ、ちゃんとやる」段取りが苦労してせっかく整ったのにね。

他にもいろいろあったのだけど、全ては「前に進む」ことと「やりきる」ことしか頭になかったので、とりあえず形だけでもつくっていくことに集中した。その後のことは、その後になれば何とかなる。そんなことを考えながら、オープニングのレセプション前夜まで床の塗装作業をしていたのは今となっては良い思い出になっている。

そして迎えた2005年の6月19日、本オープニングの日、ほぼ徹夜状態で準備作業に追われていた僕と奥さんは、見事に寝坊をしてしまったのだ。

(※続きは2月下旬に発行予定)

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