アメリカーノ、モカ、そしてエスプレッソ
とあるきょうだいのおはなし
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僕は今、走っている。
理由なんて聞かないでくれ、今はそれどころじゃない。
ただただ、急いでいる。彼に、会わなければならない。
終電はとっくに終わってしまった。バスも走ってはいない。最も、急いでいて財布も持っていないから、乗れもしないのだけれど。大きな荷物を載せたトラックが、轟音を立てて僕を抜き去っていった。スマホを握りしめた右手に汗がにじむ。
歩道橋が見えた。そしてその上に佇む、背の高い人影も。
名前を叫んでしまいたくなるのを堪えて、階段を二段飛ばしで駆け上がる。彼は手すりに肘を突いて、眼下に流れる白と赤をぼんやりと眺めていた。何気ない仕草が絵になる。彼は昔から、そんなオーラを持った人だった。
踏み出した足がカツン、と音を立てた。彼がゆっくりと振り向き、体を起こした。僕の方を向く、その胸に飛び付く。ぎゅっと抱き締めて、その温もりを、鼓動を、存在を確かめる。彼は黙って僕の頭を撫でた。まるで子供をあやすみたいに。昔と変わらない、大きくて優しい手だった。
顔を上げて彼の顔を見る。夜風に吹かれたせいか、頬が微かに青ざめていたけれど、その僅かに吊り上がった目は昔のままの輝きを宿している。あぁ、やはり彼は彼なのだ。
いつまでも離れない僕に呆れたのか、彼は小さく笑いを零した。肩を押され、強制的に剥がされる。困ったように眉尻を下げて、彼はただいま、と言った。
「遅くなった。すまない」
「おかえり」
またもくしゃっと頭を撫でられる。背丈の差は結局ずっと同じだった。年齢と同じ、どうしても埋まらない差になってしまった。斜め45°は変わらない。
「髪、伸びたな」
「うん」
ぎこちない会話がぽつぽつと続く。もどかしさと懐かしさで、僕は胸がいっぱいになった。
「ねえ兄さん」
「何だ?」
「約束、覚えてる」
僕の問い掛けに、彼は驚いたように目を見張った後で笑った。優しい笑顔だった。
「勿論。覚えてるさ」
彼はもう一度僕の頭を撫でて、帰ろうか、と言った。
モノが少ないくせに散らかったリビングに彼を通して、珈琲を淹れる。こんな深夜に珈琲なんて、と思うかもしれないけど、どうせ二人とも寝れやしないんだから関係ない。ソーサーにカップを置いて彼の前に置けば、長い指がハンドルをつまみ上げた。彼がブラック珈琲を口に含むのを見ながら、僕は自分のカップに角砂糖を二つ摘まむ。彼が僅かに眉をしかめた。彼は昔から甘い物が苦手なのだ。僕からしたらなんてもったいない!と思うのだけれど、彼とてそんな甘ったるいものを食べられるなんて!と思っているのだろうから、お互い何も言わない。
ふうふうと息を吹きかけて、一口含む。うむ、我ながら上手く淹れられた。一人暮らしを始めた当初は不味いインスタントコーヒーで精一杯だったのだから、大した成長だと思う。沈黙は心地いい。
「今度」彼が口を開いた。「独立することにした」
「そうなんだ、おめでとう」
僕の祝辞に、彼は照れたように笑った。
「今日…いや、昨日か、向こうにも辞職を申し出た」
「昨日?」
彼が帰国していることを聞いたのは日付が変わってしばらくしてからだった。「あ、俺。今空港近くの歩道橋に立ってるんだけど」という彼の第一声は、寝ぼけ眼でスマホを耳に当てた僕を覚醒させるには十分すぎた。詳しい場所を言われなくても分かる、十年前に彼と別れたのもその歩道橋なのだから。
まあとにかく、何が言いたいかというと、「あまりにも急だ」ということだ。彼は━━もちろん、僕の知っているのは十年前迄の彼なのだけれど━━おおよそ、行き当たりばったりとは無縁の性格だった。それが、昨日辞職を申し出てその足で帰国したらしい。聞けば空港を出てすぐに電話をくれたらしく、そうするとかなり「彼らしくない」行動であると言わざるを得ない。
「なんでもっと早く辞表出さなかったの」
「…ま、大人の事情ってやつだな」
彼は僕の質問にそう答え、また珈琲を啜った。僕も珈琲を口に運んだ。やっぱり美味しい珈琲を淹れるにはまだまだだ、と思った。
しばらくして、僕のスマホが四時を告げた。彼は立ち上がって、それじゃ行くか、と言った。僕は頷いて、コートを手に取った。夜明け前の空気は澄んで冷たい。戸締まりを確認して、電気を消して、カップは流しに置いて、二人で外に出る。テレビでは四月並の…と言っていたけれど、冬用のコートの隙間から冷たい空気がじわじわと浸食してきて、僕は思わず身震いをした。隣で彼が笑った気配がした。
僕の家から徒歩三十分。義姉さんはそこにいる。もちろん時間があればいつでも顔を出すけど、今日は特別。毎年三月十四日の午前五時に、僕は必ず義姉さんのところへ行く。たくさん並んだ他の人の拠り所を縫って、僕たちは義姉さんのところへたどり着いた。
「由利…」
彼が、義姉さんの名を小さく呟いた。義姉さんがここに引っ越したのは彼が向こうへ発った後だったから、彼がここで義姉さんと会うのは初めてということになる。僕は、義姉さんの拠り所の引き出しから、小さな包みを取り出した。
「義姉さんが、これ、兄さんに渡してって。お返しだって」
彼が驚いた顔をして義姉さんの方を見た。おずおずと、その手が包みを受け取る。
「ここで開けても?」
彼が掠れ声で聞いた。僕は義姉さんの代わりに頷いた。彼の美しい、長い指が、震えながら包装紙を破った。中からは白くて綺麗な長細い箱と、くるくると折り畳まれた紙が入っていた。彼はそれらを交互に見つめて、それから箱を開けた。中には、銀色のチェーンの、深海色のペンダントが入っていた。彼は僅かに目を見開いた。そして、その深海色を指でなぞった。慈しむように、愛でるように。
そうして彼は紙を開いた。目が紙の上を縦に滑っていくのが分かった。視線が紙の半分に来た辺りで、彼の目から一つ、涙が零れた。紙を持つ手が震えていた。最後まで目を通して、彼は紙を元通りに丸めた。彼の頬は雨に打たれたように濡れていた。
「…っていうことがあってね」
彼はそう昔語りを終わらせて、懐かしむように大きな目を細めた。
「へえ、マスターって昔海外いたんだ」
俺は昔語りに沿った、障りのない返事をした。冷め切ったエスプレッソを口に含む。苦い。彼はそうだよ、とアイスカフェモカのストローを加える。もう三月とはいえまだまだ寒いというのに、よくアイスなんて飲めるな、と聞いたら猫舌なのだという。ホットが冷めてから飲めばいいとも思うのだが、そこは猫舌ではない者には分からない拘りなんだろう。マスターは買い出しに行ったきり戻ってこない。まあ、ランチとカフェの間の微妙な時間だし客も俺ぐらいなものだから大丈夫なのだろう。彼は客というより従業員だ。雇われているわけではないが。
「そうだ、モデルになってよ」
なんと会話を続けようかと脳内を漁っていた俺は、彼の突然の申し出にアホ面を晒してしまった。意味が分からないのは俺の頭がポンコツだからか、彼の話が急に飛んだからか。モデルって何だ。俺の混乱を余所に、彼は言葉を紡いでいく。
「手足長いし、すらっとしてるし、描きがいがありそうだからさ」
もちろん、兄さんほどじゃないけどね!ととても良い笑顔で付け足した彼は、足元のザックから使い古されたスケッチブックを取り出した。そこでようやく合点が行く。絵のモデルだ。彼は絵を描く仕事をしていて、ふらっと出掛けてはふらっと帰ってくるのだとマスターが愚痴をこぼしていた。彼が鉛筆をスケッチブックに滑らせる音が、店内BGMの卒業ソングと混ざって響き合った。アルペジオの前奏は、昨日の日付がタイトルのものだろう。スケッチブックを開いたということは、彼はしばらくここにいることを決めたに違いない。マスターが喜ぶな、と思いながら、俺はコーヒーを口に運んだ。良い香りが鼻腔を掠めた。
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