ひとりよがりな夢を見る
ワンライ企画で書いたもの。「アメリカーノ、モカ、そしてエスプレッソ」と繋がっていますが、単体でも読めます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
それはひとりよがりな選択かもしれなかった。だが、それ以外には思い付かなかった。
彼女の訃報を受け取ったのは、一人武者修行の旅に出た四年後の事だった。俺は彼女の死に目に会えなかったどころか、通夜にも、葬式にも、行くことは叶わなかった。その後何度か帰国する機会はあっても、彼女の墓を訪れる暇はなかった。
すべては言い訳にしか過ぎない。俺が彼女を見捨てたのは事実だし、喪主を彼女の親に任せっぱなしにしたあげく墓参りにも行かなかったのも事実だ。それ故に周りから人でなしだの鬼だだの言われることに不快感はなかった。
彼女が死んで六年、日本を飛び出して十年。彼女との約束から十二年。長くてあっという間だ。俺は世話になっていたフランスのカフェを辞め、独立するために帰国した。
彼女と初めて会ったのは大学の入学式だった。一目惚れ、だった。彼女は管理栄養士志望だった。俺たちは意気投合し、将来の夢を語り合った。俺はいつか自分の店を持つ、と言った。彼女はそれなら私は君の店のメニューを考えてあげるよ、と言った。幸せだった。二人で店をやっていくのが、いつしか二人の夢になった。
大学を卒業して、結婚した。俺は調理学校に通った。彼女は管理栄養士として、そしてエッセイストとして働いた。しばらくして、彼女が言った。君が独立して店を持ったら、私の夢が叶う。そしたら、お返しをあげる。俺は舞い上がった。約束だぞ、と子供のように指切りをした。何としても、店を持とうと思った。
そして、彼女は倒れた。
彼女の体は難病に犯されていた。じわじわとゆっくり、眠るように死にゆく病。治療法はないと言われた。痛くはないんだから、と彼女は笑った。俺は大声で泣いた。彼女は真珠の涙をひとつ落としただけだった。
精密検査のために病室でベッドに収まって、彼女は俺に小指を差し出した。
「私が死んでも、約束果たしてね。ちゃんとお返し、用意しとくから」
「十年後にしようよ。十年後に君が店を持ったら、お返しをあげる」
俺は泣きそうになりながら頷いた。彼女に十年後がないことは分かっていた。
彼女は一旦家に帰ることになった。その日のうちに、彼女はフランスの知り合いへ電話した。そして俺に向き直り、十年間海外研修してきて、といたずらっぽく笑った。彼女は本気で、十年後に死ぬつもりらしかった。俺は何度も断った。彼女と一緒にいたいと言った。彼女は折れなかった。私のわがままな遺言と思ってやりなさいよ、と言った。彼女は昔から、決して自分を曲げなかった。俺は折れた。彼女は付け足した。十年間、私には会いに来ないでね。次にあなたに会うのは、あなたの店で、がいい。
どうして断れよう? その時の彼女の縋るような目を、強がった頬の強張りを、俺は今でも鮮明に思い出せる。彼女は生きるための目標が欲しかったのだ。目的が欲しかったのだ。俺は“人でなし”になる決心をした。
彼女は俺を待たずに死んだ。
独立の報告に行った日に彼女の弟経由で渡された“お返し”は、シンプルなペンダントだった。深い深い紫がかった蒼の、雫型のペンダント。彼女がよく俺に似合いそうと言っていたものだった。それと、くるくると巻くように畳まれた、一枚の紙。開けてみた。始めに彼女のやや右上がりの細い字で、「レシピ」と書いてあった。彼女らしい手紙だと思った。続きは目の前がぼやけて見えなかった。
店は二人が住んでいた家を改装した。彼女が死んで人が住まなくなっても、俺はこの家を所有し続けた。ここなら彼女と一緒に店をやれると思った。
メニューはほぼすべて、彼女の考えたものを採用した。彼女と語り合った店の在り方を、ほとんど再現した。
そして今、この店は常連ができるほど繁盛し、いくつかの雑誌に取り上げられる程になった。今日は彼女の十三回忌だ。
ご覧いただきありがとうございます。よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートはクリエイターとしての活動費として使用させていただきます。