菫 9
某月28日 日中
莉奈でなければ駄目なのか。
莉奈に愛されなくては駄目なのか。
莉奈に殺されなくては駄目なのか。
柿崎はずっと苦悩していた。だが莉奈を否定しようとすればする程、心は莉奈を求めていった。自分の中の妄念が、まるでとぐろを巻く蛇のようにその場から動こうとしなかった。
そもそも莉奈の何にそこまで惹かれているのか。
柿崎は莉奈の何を知っている訳でもない。
ただ出会って、宮前の恋人だと言う事すら忘れて一目惚れをし、そして、殴られた。
一目惚れをしてしまった事は否定しても仕方がない。それはもう取り消し出来ない事だ。だが、その一目惚れにこだわり続ける理由も特にないのではないか、と考えてみる。
初対面の相手に一目惚れする事はなくはない。だからこそ一目惚れなのだ。だが初対面の相手に問答無用で殴りかかる人間はどうだろう。野蛮ではないか。だがそこが良い。宮前以外から受ける好印象など不要な物だと切って捨てる、ただただ、愛する人だけを盲目的に愛そうとする姿勢が良い。
あなた以外要らない。それを言葉だけでなく態度で明確に示してくれる。それは酷く暴力的でありながらも、最も信頼できる愛の形ではないか。
その一点に於いてだけで既に、莉奈と言う女性が自分にとっての理想を体現した存在である事は間違いない。だが必ずしも莉奈でなければならない理由も、またないのではないか。
莉奈の事はもう少し時間を置いて考えて、いや、一旦考える事を止めにして、七回忌までは行き過ぎにせよ、そんな情念が洗い清められるまで待ってみて、それから新しい誰かと恋をするのでも良いのではないか。
ここは特区なのだ。
自分と同じく、誰かに受け入れて貰いたい人間が次から次へとやって来る。
それにまだ、特区に居住している全員と知り合いになった訳でもない。今はもう少し特区を、特区に住む人間を知る事から始めても良いのではないか。待てば海路の日和あり。最愛の人と出会えるまで、自分磨きをするのも手、なのではないか。
――――――出会えなかったら?
自分の中で、莉奈と言う存在を消し飛ばしてしまう程の人物。いくら待ってみても、二度とそんな人物に出会えなかったらどうだろうか。その時自分は、ただ莉奈に近しい、莉奈の面影を感じる誰かで妥協してしまうのではないだろうか。多くの犠牲を払ってここへ来て、まずまずでも成果を挙げられればそれで満足出来るだろうか。
駄目だ。それでは駄目だ。自分が求めるのは最高の幸福を感じた状態での死だ。妥協は最高の幸福ではない。妥協して選んだ相手に殺されたからと言って、生き返ってまた次の相手を探すなんて事は出来ない。取り返しのつく命はそもそも必死でも懸命でもなんでもない。一度きりの命を使い切るから美しいのだ。チャンスは一度きりしかない。やはり今、莉奈に心奪われている今、莉奈に殺されなくては駄目なのだ。
柿崎はその心の内から、莉奈に対する妄執を取り払う事が出来なかった。
だとすれば、あの宮前から莉奈を略奪しなくてはならない。略奪して、宮前ではなく、あの愛情を、無償の愛などでは決してない、有償の愛を求めるが故の全身全霊を、自分に向けて貰わなくてはならない。莉奈の愛を、一心に受けるべきは自分だ。そんな事を思いながらも、柿崎にはまだ引っ掛かる、懸念すべき事柄があった。
それこそ自分を磨いて、なりふり構わず莉奈を振り向かせる事が出来たら。だが、自分に振り向いてくれる莉奈では駄目なのだ。そんな莉奈なら好きにならない。自分が好きなのは恋に一途な莉奈なのだ。少し他の男に色目を使われたからと言って、宮前から自分に乗り換えてしまうような、そんな取り返しのつく愛情なんて向けられたくはない。
他の何も要らず、宮前の事だけが好きで、もしも宮前を失ったら死んでしまうような、今この恋を全力で生きているから莉奈は美しいのだ。次の恋なんてあってはならない。
だから、宮前から莉奈を略奪する事なんて、そもそも出来ない。出来てはいけない。つまり、自分は莉奈の愛を受けられない。先日交差点で莉奈と宮前を見かけたように、仲睦まじく愛し合う事は、出来ない。ならば自分はただ、莉奈に殺されるだけで満足出来るのだろうかと最後の答えを問う。
――――――出来る。
自分は特区に来るまで、死からも生からも遠ざかっていた。どこに居たのか分からない。陳腐な言い方をするならば、ただ息をしているだけだった、と言えるのかもしれない。だがもう一度、あとたった一度だけ、自分の生に意味を見出す為に特区へとやって来た。
そして出会った。莉奈と言う女性に。
彼女に殺される意味を考える今の自分は、生に意味を見出そうとしているのと同じだ。莉奈と言う女性は、自分の生に意味を与えてくれる存在だ。ならば更に問うて行こう。
莉奈を愛しているか。
恥ずかしながら愛している。そう自覚してしまった。
莉奈に愛されたいか。
愛されたくない訳ではないが、それは問題ではない。
莉奈の為に生きたいか。
生きたい。彼女の幸せの為にこの命を使いたい。
莉奈の為に死にたいか。
死にたい。彼女の幸福の為にこの命を使いたい。
莉奈の為なら莉奈以外に殺されても構わないか。
絶対に嫌だ。莉奈だけだ。
莉奈の為と言いつつ結局は自分の為に殺されたいだけではないか。
否定はしない。
どこまで行っても自分の為。
自分の為に、莉奈を利用しようとしている。否定はしない。
だが、特区ならそれも赦される。従来の倫理観に捉われない幸福追求が保障されている。特区でなら、莉奈が自分を殺しても、莉奈はいかなる罪にも問われない。そしてまた、自分が莉奈を利用しても罪に問われる謂れもない。ただ宮前と莉奈に恨まれるだけだ。
どうせ殺して貰うのだ。恨まれた方が良い。あの二人に恨まれる覚悟を決めるのだ。そうすれば自分はあの二人に置いて行かれる事もない。あの二人のように幸せになれる。
自問自答を終えた柿崎は、その日は特区に来て以来、初めて熟睡する事が出来た。
某月28日 夜間
「……莉奈ちゃん? 何見て……」
「…っ――――?! あっ! これは、その…っ ゴメン、つーくん! 私、私……!」
「見た…の?」
「だって、つーくんのホーム画面にすごい量の通知が表示されてたのが見えたから…! またあの女からなのかな、って怖くて、私怖くて…、我慢、出来なくて……! つーくんが、私に隠れて浮気してたらどうしよう、って本当に、怖くて…! ううん、良いよ、浮気なら! たまには違う女と遊びたくなったって良いよ! 私、待つから! 待てるから! つーくんがその女に飽きてまた戻って来てくれるの、何年でも何十年でも待てるから! でも、でも! つーくんに嫌われたら私…! 知らない女と、陰で私の悪口言ってたらどうしよう、って…それが怖くって! ヤだ、ヤだよ、ごめんつーくん、嫌いに、嫌いにならないで…!! お願い!」
「……ならないよ。 僕は莉奈ちゃんの事が、莉奈ちゃんの事だけが好きだよ。でも、ごめんね、黙ってて。言うと余計に心配かけちゃうかも、って思ったから…。でも、そうだよね。言わないでいる方が、莉奈ちゃんを傷付けるよね。僕は馬鹿だ」
「で、でも! このやり取りは、ずっとこの女が一方的に『明日会えるの楽しみ』とか言ってるだけで、つーくんはちゃんとずっと、アンバサダーのお仕事に関する事だけ事務的…に、返してるだけで、浮気も、私の悪口も、言ってないって分かったから! 私なら大丈夫だから…! つーくんはちゃんとお仕事したいだけ、だもんね…? それなのに私、つーくんの事、ちゃんと信じたいのに信じてあげられなくて……。 ごめん、ごめん…、私、私が、この世で一番つーくんを信じてあげないと、なのに…! 分かってるのに、自分を抑えられなくて…! あ、ああ、ああああ…、あああ…!」
「そうだよね、好きな人を信じたいのに信じられないって、すごく辛いよね」
「つー…くん…! つーくんつーくん! つーくん…つーくんだけ! 私の事を分かってくれるのは世界でつーくんだけだから!」
「うん。僕の事を分かってくれるのも世界で莉奈ちゃんだけだよ。僕はそれが嬉しい」
「うん……でも、でもあの女、綺麗に撮ってどうせ加工とかしまくった自分の写真までつーくんに送って来て、色目使ってる…! あの女は、つーくんの事が好きなんだ! つーくん、どうするの! あの女が明日、特区に来たら、つーくんに迫って来るよ! つーくんに、私に、私たちに、色目を使ってくる奴らは許せない! 気持ち悪い! 私の、私とつーくんだけの世界に入って来ようとする奴は許せない! 許さない!」
「うん、それはさ。役所の人とも相談したんだ。僕たちの幸せが壊される、って。もし本当に、どうしてもだダメだったらその人を、余所の特区に移してくれるって。ただ、今は他の特区も受け入れがかなり大変みたいで、明日からしばらくはここに来る事になっちゃう、って。最初から他の特区に出来なくて申し訳ないって言ってた」
「そんな! そんなの! 遅いよ! あの女が一目でもつーくんを見て、一秒でもつーくんと喋るなんて! それだけでもう手遅れだよ! 移して! 他の特区に! ここにだけは絶対に来させないでよ!」
「莉奈ちゃん」
「あっ……、ご、ごめっ―――――…私、自分の気持ちばかり押し付けて…ごめん! 違う! 違うそうじゃない! ごめん! 私が悪かったよね! もう言わない…! 良い! 良いよ! つーくん、アンバサダーの仕事、好きなんだもんね! ね! 大丈夫、大丈夫だから! ヤだ、やめ…やめて! 嫌いって、重いって思わないで!」
「好きだよ。莉奈ちゃんが好き。大好き。愛してる。…ごめんね、こんなに傷付けて。明日。明日だけだから。明日会って、書類のやり取りして、住居の説明して終わり。それ以上は、何もしない。何も期待しないで下さい、ってその人に言っておくから。僕には大切な恋人が居て、それを壊されるのだけは我慢ならない、って言うから。その人にも、ちゃんとこの特区で自分だけの幸せを見つけて下さい、って言うから。それが出来ないなら特区を移って貰う事になる、ってちゃんと釘を刺しておくから。それすら理解出来ないんだったら、僕も何をするか分からないって言っておくから。明日。明日だけだから。もうその人と会っても話もしない。莉奈ちゃんと約束する」
「つーくん…」
「役所がさ、忙しいって言うんだ。だから今だけ女性希望者の面倒見てって言うんだ。とにかく今は移住希望者が多い時期だから、なんとかさばきたいんだってさ。明日が来月、だから、その次…再来月になったら一か月、仕事休んても良いって」
「うそ…本当?!」
「うん。だからさ、そうしたら僕、一か月ずっと莉奈ちゃんと一緒に居たいな。どこにも行かないで、誰とも話さないで、莉奈ちゃんとだけ、ずっと一緒に。アンバサダーの仕事も頑張ったから、手当で美味しい物も取り寄せられるよ」
「うん! する! そうする! ずっと一緒に居て! つーくん! する! 我慢する! 明日、明日だけね? 明日だけあの女と話しても良いよ! 待ってる! 私ちゃんと家で待ってるから! つーくんに迷惑かけないから! 明日、お仕事頑張ってね、つーくん! 応援してるから! …信じてるから!」
「うん。 莉奈ちゃんに信じて貰えたら、僕はなんだって出来るよ」
「へへ……私、女神? つーくんの勝利の女神?」
「うん。勝利の女神で、僕の唯一神だよ」
「ユーイチシン…?」
「ゆいいつしん。僕の信じる神様はこの世で莉奈ちゃん一人だけ、って事」
「…! そっかぁ…! じゃあ、じゃあじゃあ、唯一神からのお告げだよ!」
「はい、なんでしょうか、神様」
「今夜は、私を離さないで」
「仰せのままに」
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